茶道(ちゃどう)(読み)ちゃどう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「茶道(ちゃどう)」の意味・わかりやすい解説

茶道(ちゃどう)
ちゃどう

単なる喫茶ではなく、ある種の規範(茶礼(されい))に基づく喫茶行為の総体をいう。「さどう」とも読む。茶の湯ともいい、室町時代、14世紀のなかばに原型が成立し、その後さまざまに変化して今日に及ぶ。茶道の語は芸道意識の強まった江戸中期、17世紀後半、18世紀に下ってから一般化する呼称である。茶数奇(すき)(寄)ともいうのは、茶の湯が唐物(からもの)数奇、和物数奇など「モノ数奇」を核に展開したことによる。tea ceremonyと英訳されるが、適当でないとして、近時はそのままchanoyuを用いることが定着しつつある。なお茶の湯・茶道という場合は、主として抹茶(まっちゃ)法についていい、したがって現在では極東の日本にだけみられる喫茶文化である。

[村井康彦]

歴史

喫茶文化の成立

照葉樹林帯の東端に位置する日本列島に、照葉樹の一種である茶樹が自生していた可能性はあるが、確認はされていない。かりに自生していたとしても、茶樹を利用(栽培・飲用)する知識は、9世紀初め、平安初期、中国から伝えられたものとみられる。奈良時代、正倉院文書(写経所解(げ))に見受ける「荼」(タ・ト)が、茶をチャchaもしくはティーteaと表す場合の後者の用例とする理解もあるが、この場合は苦菜(にがな)のことで、平安中期にも茶と荼を使い分けた用例が知られる。喫茶文化は、804年(延暦23)に発遣された遣唐船で入唐(にっとう)帰朝した空海・最澄(さいちょう)ら留学僧によって伝えられた可能性が大きい。とくに宝亀(ほうき)年間(770~780)に入唐し、30年近く在唐生活を送り、このとき帰国した永忠(えいちゅう)の果たした役割が大きく、これが弘仁(こうにん)年間(810~824)、嵯峨(さが)天皇以下の宮廷貴族や僧侶(そうりょ)の間で喫茶(団茶(だんちゃ)法)が新渡(しんわたり)の唐風俗として流行する原因となった。喫茶の風はその後退潮するが、宮廷や寺院での法会に際し僧侶の接待に茶が用いられたのをはじめ、寺院僧侶の間では、茶のもつ覚醒(かくせい)効果によって利用され、中世に及んだ。茶の栽培も大内裏茶園や寺院茶園で行われている。

[村井康彦]

抹茶法の伝来と普及

平安時代の唐風の茶は、保存時の形態から「団茶」とよばれ、また、飲むときそれを砕き、湯で煎(せん)じたことから「煎茶」ともいったが、中国では宋(そう)代に入って抹茶法が普及し始めている。1072年(延久4)に入宋した天台僧成尋(じょうじん)は、その日記(『参天台五台山記』)によれば、行く先々の寺院・官衙(かんが)あるいは宮廷で茶を喫しており、抹茶であった可能性が大きいが、成尋は10年後開封で没し、帰国した弟子たちによって抹茶法が広まったという形跡もない。なお成尋は茶の湯とともにしばしば(薬)湯を喫している。当時宋では客の接待に茶(湯)と薬湯をもってすることが行われており、これを「一茶一湯」などといっていた。のちに栄西(えいさい)が1168年(仁安3)、1191年(建久2)の2度入宋して抹茶法を伝え、『喫茶養生記』を著したが、茶(上巻)だけでなく桑(下巻)のことを述べているのも、茶とともに薬(桑)湯の利用を勧めたものにほかならない。いわゆる茶の湯は、こうした実用的な喫茶喫湯のうち喫茶が分立し、芸能化した過程といえよう。

 さて、栄西から茶の種子を贈られて栂尾(とがのお)高山寺の明恵(みょうえ)がこれを山内に植えたところ良茶を得た。そこでこれが栂尾茶とよばれ、「本茶(ほんちゃ)」の称を得、他所産の「非茶(ひちゃ)」と区別された。明恵はこの茶を近衛(このえ)家の宇治の所領に植えたが、これが宇治茶園の始まりと伝えている。茶の栽培は鎌倉時代を通じ、寺院から農村部へと広がり、鎌倉後期から南北朝期にかけては茶年貢(公事(くじ))も生まれている。こうした栽培と喫茶の普及のなかで鎌倉後期から室町期にかけて流行したのが、異なった茶を味別する競技の茶勝負(闘茶)で、本茶と非茶を区別する本非茶勝負から、のちにはルールを複雑にした四種十服茶勝負が考案された。佐々木導誉(どうよ)らが賭(かけ)を積んで行ったバサラ(過差(かさ))の茶寄合(よりあい)というのも、中心は闘茶会であった。

[村井康彦]

茶の湯の成立

鎌倉後期から南北朝時代は茶の湯の要件が準備された時期として重要である。一つは、禅宗の展開のなかで、宋の『禅苑清規(ぜんおんしんぎ)』に準じてわが国でも僧侶の従うべき規範(清規)の遵守が強調されたが、そのなかに喫茶儀礼が定められており、この禅院茶礼がもとになって民間での茶礼・茶会形式が生まれたことである。四つ頭(よつがしら)の茶会(茶礼)といわれるものがそれで、正客4人に相伴客がつくところからその名があり、『太平記』『喫茶往来』などの記事から、南北朝時代、この種の茶会が行われていたことが知られる。したがってこの時期の茶会は椅子(いす)が用いられる立礼(りゅうれい)で、これを唐礼といっている。二つは、2度の元寇(げんこう)にもかかわらず盛んであった中国との私貿易や禅僧の往来によって多数の唐絵(からえ)・唐物(からもの)が伝来され、これに対する愛好、いわゆる唐物数奇が進み、唐物を部屋に飾り(唐物荘厳(しょうごん))、また唐物を用いる茶会が行われるようになったことである。三つは、和歌会や連歌(れんが)会の流行によって、文芸の場としての会所(かいしょ)に対する関心が高まっていたが、これが茶寄合の場ともされたことである。こうして成立した南北朝・室町初期の茶の湯(四つ頭の茶会)のありさまは、先の『喫茶往来』でみることができる。茶の湯の語もこのころ生まれている。

[村井康彦]

書院茶の湯の発展

こうして茶の湯は14世紀なかば、禅院茶礼を母胎に、唐物数奇の高揚期に成立した。茶数奇が茶の湯の代名詞となった理由であり、のちには数奇だけで通用した。唐物の収集は室町将軍家において顕著であり、のちにそれら歴代の収集物は東山殿義政(よしまさ)に代表させて「東山御物」とよばれるが、唐物の目利(めきき)(鑑定)、表装、あるいは唐物をもってする座敷飾りにあたったのが、能阿弥(のうあみ)・芸阿弥(げいあみ)・相阿弥(そうあみ)ら唐物奉行の同朋衆(どうぼうしゅう)であり、彼らの手でつくりだされた座敷飾りの規矩(きく)が『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)』である。いわゆる床の間も、唐物を飾る場として考案されたもので、畳も敷き詰められることで書院座敷が出現し、これに相応する茶礼が生まれた。そこでこれを「書院茶の湯(礼)」といい、様式的には15世紀なかば、足利義教(あしかがよしのり)のころに完成したと考えられる。立礼から畳に座る座礼にかわったのもこの時期のことであるが、当初は胡座(あぐら)などで行われ、いわゆる正座になったのはもうすこし下るであろう。また室内に囲炉裏(いろり)が切られることはなく、別室や廊下などに茶湯所が設けられ、そこで点茶のうえ、客室へ持ち運ばれる、いわゆる点(た)て出(だ)しの茶であった。茶湯所に切られた丸炉(がんろ)も書院茶の湯の特徴とみられる。

[村井康彦]

市中の山里

ところが15世紀末、こうした唐物中心の書院茶の湯に変化が生じている。一つは、村田珠光(じゅこう)が弟子の古市澄胤(ちょういん)に与えた『心の一紙(いっし)』(『心の師の文』)に、「この道の一大事は和漢のさかいをまぎらかすこと肝要」とあるように、唐物と和物の融合が説かれ、和物すなわち備前(びぜん)焼・信楽(しがらき)焼など、国焼(くにやき)のもつ素朴な美しさに関心がもたれ始めたことである。こうした美意識の変化には、「ひえやせる」「ひえかれる」「かれかじける」といった枯淡の美を強調していた連歌(れんが)の歌論、とくに心敬(しんけい)の説から受けた影響が大きい。二つは、このような美意識の変化に対応するように、同じ時期、四畳半指向が現れたことで、その現存最古の遺構が、義政の営んだ東山山荘の東求堂同仁斎(とうぐどうどうじんさい)である。四畳半は「(方)丈間」ともよばれたように、隠者・遁世(とんせい)者の入った山里の草庵(そうあん)であり、脱俗・出世間の空間といってよい。その点、最初の四畳半書院に、世俗的な身分関係を否定する意の同仁斎という扁額(へんがく)名がつけられたのは意味深い。16世紀に入ると、こうした四畳半が「都の隠家(かくれが)」「市中の山里(山居(さんきょ))」とよばれ、京都や堺(さかい)など都市民の間に好んで求められるようになる。京都で「下京茶湯(しもぎょうちゃのゆ)(者(しゃ))」の呼称が生まれたのも、商工業地区の雑踏との対比が注目されたもので、「市中の山里」とは、日常のなかに取り込まれた非日常・虚構の空間ということができよう。ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』にも、数奇を好んだ堺の富裕町人の間で「市中の山居」xichû no sankioが、純粋の山居に勝るものと考えられていたとある。こうして16世紀中葉には書院造ではない民家風の四畳半草庵が登場し、いわゆる「草庵茶の湯(茶礼)」が成立した。草庵茶の湯は典型的な都市文化であったといえよう。

[村井康彦]

天文茶会記の世界

草庵茶の湯が都市民の間に成立・発展した証左(しょうさ)が、茶会記の登場である。1533年(天文2)に始まる『松屋会記』、48年に始まる『天王寺茶会記』、および54年に始まる『今井宗久(そうきゅう)茶湯日記書抜』がそれで、いずれも天文(てんぶん)年間(1532~55)に始まるところから「天文茶会記」と総称している。これは、花の世界で、応仁(おうにん)・文明(ぶんめい)の乱ころから出現する花伝書が、やはりこの時期に集中するところから「天文花伝書」と称しているのと相まって、この時期に都市民の間に生活文化が高揚したことを示している。茶の湯をもって渡世する「茶湯者(ちゃのゆしゃ)」が登場したのも、茶の湯が都市(民)を基盤として発展したことの現れであろう。この天文年間を中心に、四畳半茶室を基礎とする茶の湯の展開に指導的な役割を果たしたのが、茶の湯名人武野紹鴎(たけのじょうおう)で、紹鴎の時期、「わび」の美意識が茶の湯において初めて自覚され、また「茶禅一味」が唱えられるようになる。このうち、わびは、もともとは「モノ」の欠如した状態、あるいはそれによって引き起こされる好ましくない感情のことであるが、歌論の世界では、平安末期・鎌倉初期、藤原俊成(しゅんぜい)や定家(ていか)のころ、一種の美意識として受け止められるようになっていた。それが16世紀の中葉に至り茶の湯に取り込まれたものであるが、これは、茶の湯が「モノ」を不可欠の構成要素とし、歴史的にも「モノ数奇」として展開したことと密接な関係にあり、都市町人間に道具所有が高揚した天文期に茶の湯の美意識とされたことに留意する必要がある。他方、茶禅一味は、紹鴎が南宗寺の大林宗套(だいりんそうとう)に参禅し、禅的教養を体得したことに負うが、茶禅一味は、茶の湯に修行的な要素が強調されるようになったことの現れである。またこれが機縁となって、茶人の参禅が慣例となった。のちに大徳寺が茶(人)との関係が深くなり、「茶面(ちゃづら)」とよばれるようになるのも、堺における南宗寺と茶人の関係が、そのまま京都へ持ち込まれた結果といってよいであろう。これらのことから、天文期に形成された茶の湯のあり方が紹鴎の「法度」とよばれたのも理由のないことではない(『山上宗二記(やまのうえそうじき)』)。さて、天文茶会記の内容は「数奇」と「振舞(ふるまい)」とから成立している。このうち数奇は、用いた道具類などを記す狭義の茶事の記録で、先にみた「茶数奇」の伝統を負う用法である。一方の振舞は会席料理のことであるが、客人に振舞=馳走(ちそう)することから料理の意味が生じたもの。『山上宗二記』には、こうした振舞としての料理ばかりでなく、亭主振(舞)・客人振(舞)のことに触れ、それは「一期一会(いちごいちえ)」でなければならないと説く。茶会を人間一生に一度の交会の場ととらえ、相手に誠意を尽くすという一期一会の観念は、寄合の倫理の究極といってよい。

[村井康彦]

利休の茶

1568年天下一統を目ざして上洛(じょうらく)した織田信長が、堺の町の経済力を吸収する方便として、今井宗久、津田宗及、千利休(せんのりきゅう)ら町衆茶人を茶頭(さどう)に起用したことは、ほぼこれを踏襲した豊臣(とよとみ)秀吉の時代を含めて、茶の湯のあり方に変化をもたらしている。茶の湯が、茶頭を媒介とするもっとも凝縮された政治的行為ともなる一方、天下一の宗匠としての茶頭の茶が大きな影響力を及ぼすことになったからである。とくに利休は、秀吉時代になって特色を発揮し始めるが、その茶の湯観をもっともよく示すのが、小間(こま)の茶室の創出である。山崎の妙喜庵にある待庵(たいあん)にみるように、それまで定型化していた四畳半を一挙に二畳にまで縮めている。一畳台目(だいめ)の茶席もつくっている。茶室の縮小は茶の湯における寄合性の否定ではなく、これを極限まで追求し、主客直心(じきしん)の交わりの場としたものであった。また躙口(にじりぐち)を設けたのも、露地(外界)と茶室(内部)の結界(けっかい)となし、それを通ることで日常性を払拭(ふっしょく)し、精神的緊張を高めるためであったと考えられる。利休の茶が求道的といわれるゆえんである。長次郎を指導してつくらせた茶陶、とくに黒楽茶碗(くろらくぢゃわん)にも、利休の美意識が凝集されている。しかしその一方で利休は、木地(きじ)の釣瓶(つるべ)を水指(みずさし)に用い、竹の花入れを用いるなど、日常身辺に美をみいだし、これを茶の湯に取り入れたことでも特異な才能を発揮している。利休が茶の湯の大成者といわれるゆえんは、茶の湯が本質的にもつと考えられる日常性と非日常性とを二つながら徹底的に追求したところにあったといってよい。

[村井康彦]

利休の茶統

1591年(天正19)2月、秀吉の命で自刃した利休のあとは、茶法を直伝されたという弟子たち、「利休七哲」(古田織部(ふるたおりべ)、細川三斎(さんさい)、蒲生氏郷(がもううじさと)、高山右近(うこん)、牧村兵部(ひょうぶ)、芝山監物(けんもつ)、瀬田掃部(かもん))のうち、古田織部が慶長(けいちょう)初年には茶湯名人とよばれた。強い変形に特色をみせた沓型(くつがた)茶碗や開放的な多窓形式の茶室、景気を好んだ露地には、利休の茶の否定的な継承という要素が濃厚である。織部晩年の弟子が小堀遠州(こぼりえんしゅう)で、これまでの茶の湯を総合し、「きれいさび」の美的世界をつくりだし、これは八条宮(はちじょうのみや)の桂(かつら)離宮や後水尾(ごみずのお)院の修学院(しゅがくいん)離宮などにも大きな影響を及ぼしている。遠州は織部を受けて柳営(りゅうえい)茶の湯を指導したが、遠州のあとは片桐石州(かたぎりせきしゅう)の茶が石州流として武門に広まっている。

[村井康彦]

上流(かみりゅう)・下流(しもりゅう)

これに対して千家では、利休の後妻宗恩(そうおん)の子少庵(しょうあん)、その子宗旦(そうたん)が千家を再興する。宗旦は生涯清貧に甘んずる一方、禅を強調したこともあって、御室(おむろ)焼の野々村仁清(にんせい)を指導して華麗な茶陶をつくらせた金森宗和(かなもりそうわ)との対比で、「乞食(こじき)宗旦、姫宗和」とよばれることが多い。宗旦自身は仕官しなかったが、子の「有付(ありつき)」(就職)には熱心で、三子が紀州徳川家(宗左)、加賀前田家(宗室)、讃岐(さぬき)松平家(宗守)の茶頭となり、この立場は明治維新まで続く。三千家が上京(かみぎょう)にあったのに対して、藪内(やぶのうち)家が下京(しもぎょう)にあって西本願寺に仕えたことから、「上流」「下流」といい、新興町人層にも茶の湯を広めている。とくに「宗旦四天王」(山田宗徧(そうへん)、杉木普斎(ふさい)、藤村庸軒(ようけん)、久須見疎安(くすみそあん))が元禄(げんろく)期(1688~1704)前後における千家の茶の発展に果たした役割は大きい。

[村井康彦]

家元制度と七事式

こうした茶の発展のなか、利休賜死百年にあたる1690年(元禄3)に向けて利休回帰が進み、茶聖化の傾向も現れている。筑前(ちくぜん)黒田藩の立花実山(たちばなじつざん)が利休に仮託して『南方録(なんぽうろく)』を編集し、利休流の茶を宣揚したのは、その顕著な例である。茶の湯人口の増大に対応し、啓蒙(けいもう)的な茶書が多数出版されるようになったのも、この時期の特徴である。しかしその一方で、『源流茶話(げんりゅうちゃわ)』を著した藪内竹心(ちくしん)のように、こうした茶の普及は堕落であるとし、遊興化する茶の湯を批判して茶の湯の倫理を説き、利休に戻ることを主張した意見も現れている。茶道の語が用いられるようになるのもこのころからである。いずれにせよ、このような茶の湯の普及を前提としてつくりだされたのが、いわゆる「家元制度」である。千家、藪内家という特定の家元が免許状の発行権を掌握するこの家元制度は、中世的な伝授が、師資相承といって、特定の人にのみ与えられる閉ざされたものである一方、奥義まで皆伝する、いわゆる完全相伝であったのに対し、ここでは最終の発行権を家元が握る不完全相伝である反面、多数の人々を対象とする点では、開かれた伝授の形式であったといえる。この家元制度は18世紀前期にほぼできあがったと考えられている。18世紀なかば、表千家の如心斎天然(じょしんさいてんねん)が中心になって考案されたという「七事式」も、こうした茶の湯人口の増大を前提としていた。七事式とは花月(かげつ)、且座(さざ)、廻り炭(まわりずみ)、廻り花、茶かぶき、一二三(ひふみ)、員茶(かずちゃ)の七つの茶事の作法をいうが、かつて中世に盛行した闘茶が茶かぶきとして取り込まれているように、遊びの雰囲気のなかで茶に対する感覚を磨き、あわせて技量の向上を図った、大衆化時代の茶のカリキュラムといってよい。当然のことながら茶人の批判を受けたが、こうした茶事が家元自身の手で考案されているところに、江戸後期における大衆化時代の茶の湯の一面が示されている。この七事式の制定に関与した川上不白(かわかみふはく)が、七事式を活用して大江戸の武士と町人に千家の茶を広めたのもうなずけよう。不白の茶は「江戸千家」とよばれている。

[村井康彦]

茶論の展開

14世紀中葉に茶の湯が成立して以来、江戸後期に至るまでの間に、茶の湯論ともいうべきものもあらかた出尽くした感がある。一つは、形式化した抹茶道に対する煎茶道(せんちゃどう)からの批判である。煎茶は近世に入って伝えられ、文人墨客の間に受容されていた。二つは、時代を反映して儒教的な立場からする茶の湯批判で、寛政(かんせい)の改革を推進した松平定信(さだのぶ)の茶論にみられるように、贅沢(ぜいたく)な道具茶に対する非難が主である。これについては、松平不昧(ふまい)が、若い時分に書いた文章(『贅言(むだごと)』)では厳しく道具茶を批判しながら、藩財政の好転を機に近世最大の収集家になったことが思い合わされる。しかし不昧の特異性は、茶道具を研究の対象としたことで、実証主義的な研究の萌芽(ほうが)として注目されよう。三つは、井伊直弼(いいなおすけ)の茶書(『茶湯一会集(ちゃのゆいちえしゅう)』)にみられるように、茶の湯のもつ精神性を強調した茶論である。ことに直弼の場合、「一期一会」に加えて「独座観念」が説かれており、ここには、近世を通じて到達した茶の湯観の極致が示されている。

[村井康彦]

茶の湯と日本文化

茶の湯は他の伝統芸能と同様、明治維新で衰微するが、明治20年代に入ってから再生の道を歩む。ブルジョアジーを中心とする近代数奇者たちの果たした役割が大きい。しかし江戸時代までは茶道人口のほとんどを構成していた男性にかわり、新たな担い手になったのは女性たちであった。茶の湯がもつ修行的な一面が近代の女子教育に取り入れられた結果であるが、女性の進出は茶の湯の世界を大きくかえた。また第二次世界大戦後は、国際化の進むなかで茶の湯が日本文化の一つとして海外に紹介され、かつてないほどの広がりを示しているが、生活様式の異なる外国人に茶の湯の真髄(しんずい)が理解されるのは容易ではないであろう。岡倉天心は欧米人に日本を理解させるための方便として茶道を取り上げ、『茶の本』The Book of Tea(和訳は1929年)を著して「茶道とは日常生活の俗事のなかに見出されたる美しきものを崇拝することに基く一種の儀式」と述べている。

 茶道は、喫茶という日常的な行為をある種の形式に仕立てた生活芸術であり、もっとも典型的な生活文化である。換言すれば、茶の湯には日常性と非日常性・虚構性とが共存し、そのため時々の生活様式に規制され、絶えず変容する要素と、時代を超える抽象化された美的世界とがあるといってよい。変化の度の激しい現代社会のなかで、外国人はもとより、これからの日本人に生活芸術としての茶の湯がどこまで受容され伝承されるか、問題はこれからであろう。

[村井康彦]

文献


 茶道史を解明していくうえで、公家(くげ)や僧侶(そうりょ)の日記・語録の類、または文学書や随筆に至るまで、茶道の文献・資料として取り上げなければならないものは多いが、ここでは一般的な意味での茶の書について記述しておく。茶書を広義に解釈すると、中国の『茶経(ちゃきょう)』(陸羽(りくう)著)、『茶録(ちゃろく)』(蔡襄(さいじょう)著)、『大観茶論』(徽宗(きそう)皇帝著)、『煎茶水記(せんちゃすいき)』(張又新(ちょうゆうしん)著)、『茶具図賛』(審安(しんあん)老人著)などをまずあげなければならない。これらの書は、唐代の団茶(だんちゃ)法や宋(そう)代になって行われるようになった抹茶法を解明していくうえで、不可欠の書である。また、単に題材を茶にとったにすぎない往来物である『喫茶往来』(玄恵(げんえ)法師筆)、茶のみならず桑の煎法を下巻に含む『喫茶養生記』(栄西(えいさい)著)、あるいは寺院の什物(じゅうもつ)目録である『仏日庵公物(ぶつにちあんくもつ)目録』や『霊雲院校割帳(れいうんいんきょうかつちょう)』、また唐物(からもの)道具の目録や室礼(しつらい)の書というべき『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)』や『室町殿行幸御飾記(おかざりき)』『御飾記』なども、茶の書として欠くべからざるものといえよう。これらはしかし、重要な茶道史料であるとしても、狭義の茶書には含まれない。茶道そのものの内容を記述する目的で著されたものではないからである。

 東山時代の同朋衆(どうぼうしゅう)すなわち能阿弥(のうあみ)・芸阿弥・相阿弥たちによる唐物荘厳(しょうごん)の書院茶の時代が過ぎて、珠光(じゅこう)による草庵(そうあん)茶が一般化してくると、にわかに、茶事の台本となる点前(てまえ)や会記を書き留めておく傾向が著しくなった。茶会記を書き留めるようになると、今度はおのおのの道具の出処や分類、果ては茶器を目利きして新しい発見をするための手引書が望まれるようになった。その第一が『茶具備討集(ちゃぐびとうしゅう)』(1554成立)であり、『茶器名物集』『仙茶集』などであった。それは、茶席における数奇(すき)雑談の場の拡大と、聞き書きによる秘事の伝授を根底にするものであった。聞き書きの茶書としては、利休(りきゅう)の伝を聞き書きしたと伝える『山上宗二記(やまのうえそうじき)』や『南方録(なんぽうろく)』をはじめ、『宗春翁(そうしゅんおう)茶道聞書』『慶長御尋書(けいちょうおたずねがき)』『古田織部正殿(おりべのしょうどの)聞書』『石州流鎮信派(せきしゅうりゅうちんしんは)聞書』『茶道旧聞録(きゅうぶんろく)』『茶湯古事談(ちゃのゆこじだん)』『茶話指月集(ちゃわしげつしゅう)』などがある。また、茶会の台本である茶会記は、奈良の塗師(ぬし)松屋久政(ひさまさ)が1533年(天文2)に書き始めた『松屋会記』をもって嚆矢(こうし)とする。当時は、草庵茶を創(はじ)めた珠光が没したあとで、武野紹鴎(たけのじょうおう)は30歳を超したばかりであり、その時期に茶会記が書き始められているのは驚くべきことである。ついで48年からは『天王寺屋(てんのうじや)会記』が始まる。さらに54年には『今井宗久茶湯日記』、86年(天正14)には『宗湛(そうたん)日記』が書き留められるようになる。これらを通常四大茶会記と称して、初期茶道時代の研究には不可欠の文献となっている。江戸時代に入ると茶会記録も多様化していき、『織部茶会記』『遠州会之留』『遠州口切(くちきり)帳』『松花堂(しょうかどう)茶会記』『片桐(かたぎり)石州会之留』をはじめ、仙台伊達(だて)家4代綱村(つなむら)による1300余会の自会記『伊達綱村茶会記』、後西(ごさい)天皇の茶会記『後西院御茶湯之記』、近衛家煕(このえいえひろ)の『槐記(かいき)』などをみることができる。一方、点前の書としては、奈良興福寺の僧実堯(じつぎょう)によって書かれた『習見聴諺集(しゅうけんちょうげんしゅう)』に収められている「古伝書」(1567)を初見とし、紹鴎が堺(さかい)の豪商池永宗作(いけながそうさ)に与えた『池永宗作への書』、春松斎真渓編述『分類草人木(ぶんるいそうじんぼく)』、『茶具備討集』の記事を和歌に詠み込んだ『烏鼠(うそ)集』へと続いていく。そして茶法の伝授書として最初に出版されたのは、1626年(寛永3)の『草人木』3巻であった。その後、『古織伝(こおりでん)』『細川三斎茶湯之書』『利休茶湯書』や、山田宗徧(そうへん)による『茶道便蒙抄(べんもうしょう)』『茶道要録(ようろく)』、遠藤元閑(げんかん)による『茶湯評林(ちゃのゆひょうりん)』『茶之湯三伝集(ちゃのゆさんでんしゅう)』『当流茶之湯流伝集(とうりゅうちゃのゆりゅうでんしゅう)』『古今茶湯大全(ここんちゃのゆたいぜん)』の出版へと続いていく。茶法を正しく伝えることは茶の道に携わる者にとってもっとも望むものであろうが、出版という一般的な手法によらず、主張する茶法を正しく伝授するために書かれたものとして、幕末の大老井伊直弼(いいなおすけ)の『茶湯一会集(ちゃのゆいちえしゅう)』などもある。

[筒井紘一]

茶事

初期の茶会と作法

茶会といわれるものの原初的形態は古く、鎌倉時代末期の『八坂神社記録』や『師守記(もろもりき)』『喫茶往来』などに散見する闘茶(とうちゃ)の会をあげなければならない。しかしながら当時の茶会は、饗膳(きょうぜん)と茶とはそれぞれ異なる場所で行われていて、闘茶などをする遊興のための催しであるから、今日的な意味での「茶会」とよぶには値しない。空間構成としての独特の茶室を使って、料理と点前(てまえ)を披露する茶会が成立するためには、珠光(じゅこう)の出現を待たなければならなかった。その茶会の特色は、懐石と点前を同一場所で行うことであった。現在、残されている純粋な意味での茶会の初見は、『松屋会記』である。会記の初期の段階では、食事から茶へと続く茶会のパターンを備えた会と、『喫茶往来』でみられる素麺(そうめん)や水繊(すいせん)などの点心に茶が付帯する簡単な形式の会とが混在していて、茶会とはいっても一定の形式をもたなかった。同年3月20日の初会は、久政1人が客となって東大寺の四聖坊で開かれている。この会のようすは次のように記されている。

床ニ 川チサ 一文字 牧谿筆
 板ニ平蜘蛛  ソハニ石花香炉
 タチの内ニ 盆ニツルクヒ 大合子水サシ
 ウス茶碗 カネノ平キ水コボシ
茶過テ素麺アリ
 久政が席入りすると、床には牧谿(もっけい)筆「川苣(かわちさ)」の絵が掛かっている。そして箪笥(たんす)棚には盆にのった鶴首(つるくび)の茶入(ちゃいれ)、合子(ごうす)の水指(みずさし)、薄茶碗、建水(けんすい)が置かれている。天目(てんもく)ではなくて青磁などの薄茶碗があるのみだから、たぶん薄茶だけを飲んだものと考える。そのあとで素麺を食べている。茶のあとで素麺とあるから、通常の茶会では「後段(ごだん)」の形式になる部分であるが、この会では茶の前の料理が出されたようには思えない。寺院という状況からいって、簡略化した点心風会席であったとも考えられる。このような一方で、料理―中立(なかだち)―茶と続く形式の整った会も併行して催されている。1537年(天文6)9月12日に紹鴎(じょうおう)の師匠とされる京都十四屋宗伍(じゅうしやそうご)の会に久政1人が招かれたときのようすがそれである。

  酉9月12日朝
 一京都十四屋宗伍ヘ  久政壱人
 床ニ北礀ノ文字
 台子ニ平釜 天下一ホウノサキ 蟹蓋置
 上ニワケ(曲)盆ニ 高ライ茶碗トヤラウト置合テ 勝手ヨリ小餌籮持出テ 台子ニ置テ 茶立候也 茶過テ茄子持出テ 御ミセ候也
  サケヤキ物  汁ナ  引物カサウ
               アメノウヲ
  カイツケ   飯
   菓子 ヤキクリ コフ クワイ
 この茶会のようすは次のようなものであったと想像できる。宗伍の席が何畳敷であったかは不明だが、台子(だいす)の茶が点(た)てられているから、四畳半ほどの広さであろうか。朝会に招かれた久政は、席入りして床を拝見する。床には北礀居(ほっかんこかん)の法語が掛けられている。台子の長板には、風炉(ふろ)と平釜(ひらがま)、天下一の名物棒の先の建水、7種の蓋置(ふたおき)の一つである蟹(かに)、天板には曲盆に高麗(こうらい)茶碗と薬籠(やくろう)が置き合わされている。定座につくと、まず膳(ぜん)が出される。膳には手前右に菜(な)入りの汁椀(わん)、左に飯椀が置かれ、向かい側には鮭(さけ)焼き物と殻をつけた貝の料理の二つ置きになっている。そのあと、水屋から水鮭(あめのうを)のかんぞう膾(なます)が出され、酒が少々勧められる。それが済むと菓子が出される。菓子は焼栗(やきぐり)、昆布(こんぶ)、烏芋の3種である。食べ終わったころを見計らって宗伍は炭斗(すみとり)を持って入る。と同時に久政は席を立って障子を開けて外に出る。当時はまだ躙口(にじりぐち)ではなくて障子の外に濡(ぬ)れ縁がついており、久政はそこで中立の休憩をして後席の入りを待っていた。案内があって席入りすると、勝手から餌籮の水指を持ち出して台子の下段にある風炉釜に置き合わせる。そして薬籠に入っていた茶を使って高麗茶碗で茶を点てている。たぶん薄茶だけではなかったかと考える。それが済むと茄子(なす)茶入を持ち出して拝見に供しているようである。

 次にこの茶会を参考にしつつ、茶道形成期の亭主と客の心得について眺めてみよう。まず、茶会の亭主となる人は、予定をたてると、客へ案内状を出さなくてはならない。客からは承諾の感謝状を返す。すると亭主から予定の日付を書いた2度目の状を出す。客のほうは再度の案内を謝する返礼を出す。一会の約束が成立すると、客はかならず亭主へ礼使を出す。その場合、貴主賤客(せんきゃく)であれば客自身が一礼に行き、賤主貴客であれば2度目の状を出すとき、亭主自身が礼に行く。茶会の当日、客が訪れると主人は門まで迎えに出る。その場合、「貴客なれば門外へ迎えに出つ」(『烏鼠(うそ)集』)というように、貴客を門の外に出て迎えるが、同輩の場合は門内にいて挨拶(あいさつ)を交わす。そして客は露地(ろじ)口から席へ通り、「縁より座へ入」(古伝書)るか、「客小座敷の妻戸より入」(『烏鼠集』)るかする。その際の入り方は、席中に亭主がいれば一礼する。入席すると床へ寄り、絵でも字でも掛けてあったら静かに全体を拝見し、いますこし寄って絵や筆の勢い、表具の状態をよく見る。花をいけていたら、それも静かに見る。さらに台子でも釣釜でも囲炉裏(いろり)でも、いずれにしろそばに寄り、左右の手をついて見、それぞれについて褒め、定座に戻る。亭主が初めから席中におらず、あとになって出る場合でも同様である。

 こうしてお互いの挨拶が済むと、「着座して少(すこし)物語有(あり)て御膳出るなり」(『烏鼠集』)というように、すこし雑談をして膳を出す。客は食べる前に褒める。その褒め方にはいろいろあって、御馳走(ごちそう)があれば「御隔心(ごかくしん)の奔走」をといって褒め、珍しい物があれば「かかる珍物」をといって褒め、初物(はつもの)があればそれぞれに褒め、さびさびとした粗相な小漬(こづけ)の場合には「きれいなる御仕立(おしたて)」をといって褒める。そして料理を食べ始めるのだが、大食しないように、また飲みすぎないようにしなければならない。客が料理を食べ終わると、「御膳あがり すなハち菓子出すへし」(『烏鼠集』)とあるように、亭主は菓子を持ち出す。客は楊枝(ようじ)を取り、精の入った菓子を褒めて、食べやすいものから食べていく。柿(かき)の蔕(へた)や桃の核類は、式正(しきしょう)の場所では鼻紙に包んで懐中する。客が食べ終わるのを待って亭主は席を立ち、露地で手水(ちょうず)使いをして席中に戻る。そのとき炭斗を持ってくる。その後、客は中立をする。

 さて客が中立をすると、亭主のほうは後入(ごい)りのために、掛物(かけもの)を掛け替えたり、炭を直したりして席中の準備をしなければならない。初期茶道時代には確定的ではないが、通常は懐石を食べる前席では床に花入(はないれ)、後席では掛物を掛けるようになっている。それが終わると亭主から案内がある。客は1人1人ばらばらに入ることをせず、正客から順番に手水使いをして席に入る。その方法は、まず左右の手をすすぎ、うがいをして口中を清潔にし、柄杓(ひしゃく)の柄もぬらしておく。中立の間に、掛物が掛かっていたり、花がいけてあったりすると、障子を開けてすぐに入ることをせず、縁に座って遠見をし、室内のようすをうかがって、1人ずつ拝見しながら着座する。それから点前に入るのである。その点て方としては、濃茶点前、薄茶点前と続くのが基本である。

 茶会が成立していく段階で、炭手前を見る場合と、見えない場合のあった初期の作法は利休の時代になると、小座敷の炉(ろ)の炭は拝見するのが普通になっていた。『宗湛(そうたん)日記』の1586年(天正14)12月26日の朝茜屋宗佐(あかねやそうさ)の会では、四畳半座敷に炉が切られている。まず宗湛が入ると、初炭(しょずみ)を置いて振舞(ふるまい)の懐石に及び、それが済むとまた炭を置く。中立で手水使いをして濃茶、薄茶で終わっている。ところが翌日の千紹二(せんのしょうじ)の朝会では、初炭―懐石―中立・炭という手順で運んでいる。その後、席入りをし、濃茶の点前があって亭主が天目をふくとき、「コイ出一ラン候、ソノ間シハラク内ニ被居候也、サテ内ヨリスミトリ持出ツヲル候テ、良咄テ、ウスチヤ」となって終わっている。通常の炭は、多くても初炭・後炭(ごずみ)・留炭(とめすみ)(立炭)という三炭であるが、この会では「スミ四度ヲカレ候、三トメヨリ灰ヲ入」れたという。さらに2日後の宗伝の「夜咄(よばなし)」では、初炭をし、薄茶をまず勧め、懐石があって、中立となる。後入りのあとは濃茶を飲み回し、湯を飲んだあと、いま一度薄茶を飲み、留炭で炭方は立つことになる。現在の茶事七式の一つ「夜咄」は、12月から2月までの夜長の期に催されるもので、初入りし息つきの湯のかわりとしておもあいにする薄茶、それから懐石―中立―後入り―濃茶へと続き、薄茶―留炭という順になり、『宗湛日記』の「夜咄」の記述と似通っているのは、そのころまでに「夜咄」が成立していたことを示しているといえよう。

 なお、茶事に必要な道具を茶道具という。おもなものに、茶席の床を飾る「掛物(かけもの)」、点茶に必要な「香合(こうごう)」「風炉(ふろ)」「茶釜(ちゃがま)」「蓋置(ふたおき)」「台子(だいす)」「茶入(ちゃいれ)」「薄茶器(うすちゃき)」「茶碗(ちゃわん)」「茶杓(ちゃしゃく)」「茶筅(ちゃせん)」「水指(みずさし)」「建水(けんすい)」「茶箱(ちゃばこ)」などがあり、詳しくは、各項目を参照されたい。

[筒井紘一]

茶事七式

現在、茶会の形式には七式といわれる七つの方法がある。しかし、「茶事七式」の名でよばれるようになったのは幕末のころではないかと考えられる。『芳茗記聞(ほうめいきぶん)』(1867成立)に「茶会七式」として、昼・朝・跡見(あとみ)・夜咄(よばなし)・暁(あかつき)・飯後(はんご)・不時(ふじ)の七つに、独客の茶事が加えられて記載されているのが「七式」の呼称の古いほうである。

 茶事七式のなかで最初に現れたのは、十四屋宗伍(じゅうしやそうご)が1537年(天文6)に行った「朝」会である。現在朝茶というと、夏の朝早く、日中を避け、茶を点てて饗応(きょうおう)するのが通例のようになっているが、茶道の成立期にあっては「朝」会が中心であって、しかも年中催されるものであった。その後、『松屋会記』に1556年(弘治2)5月18日の称名寺恵遵(えじゅん)房で「昼」会、1559年(永禄2)4月20日の堺樋口(さかいひぐち)屋で「晩」会、同22日の北向道陳(きたむきどうちん)で「朝メシ過(すぎ)」(飯後)会の記述がある。一方、『天王寺屋会記』でも1548年(天文17)12月6日に津田宗達(そうたつ)が「朝」会、同25日の昼間に「不時」の会、翌49年4月6日に下間丹後(しもつまたんご)が「昼」会、同11月22日に宗達が「夜」会、翌50年正月18日に宗達が「跡見」、56年(弘治2)12月2日に三好実休(みよしじっきゅう)が「朝、口切(くちきり)」を行っている。以上の茶会記からは、弘治(こうじ)年間(1555~58)までに朝・昼・晩(夜咄)・跡見・飯後・不時・口切の茶会がすでに成立していたことが明らかである。以上の茶会記にみられない「暁」会も、『松屋会記』1586年(天正14)9月28日に「朝、未明」とあり、『南方録』の「覚書」に「易(えき)(利休)云(いう)、暁会、夜会、腰掛に行灯(あんどん)を置(おく)べし」とあり、珍しいものではなかったようだ。

 いま試みに『松屋会記』のなかで久政(ひさまさ)が招かれた(1533~61)143回の刻限を調べてみると、朝会71会、日中(昼)40会、八つ時(どき)18会、晩(夜)会8会、不時2会、四つ時2会、未明1会、朝メシ過1会となっている。朝会は年間を通じてもっとも好まれ、とくに冬から春にかけて多くみられる。逆に5月から8月の夏期にかけて、あまり好まれていない。一方、朝メシ過はもちろんのこと、四つ時(午前10時)と八つ時(午後2時)の会も飯後の会といえるが、これも料理が極端に少ない場合と、一汁三菜に湯漬け・雑煮(ぞうに)まで出される会(『松屋会記』天正(てんしょう)13年3月13日乗春会)、さらには口切(同14年10月6日秀長会)などにあてられる場合もあった。『烏鼠(うそ)集』に「年中茶会の興行、初雪に口を切早く知音をよひ、かならず朝会よし、兼日(けんじつ)朝会ハ専賞なり、夕会ハ次也(なり)、午時と俄(にわか)とハ又其(その)次也、初春、仲春の渡し前に必一会すべし、晨午(しんご)ハ隙次第(ひましだい)也」とある。当時の茶人が朝会を好んでいたようすはここでもうかがわれる。

 このように茶道の成立期にはすでに茶事の七式は整っていたにもかかわらず、江戸後期までは「五度」といい、「五時(事)」と称していた。宗旦(そうたん)四天王の1人杉木普斎(すぎきふさい)の高弟清水柳溪(しみずりゅうけい)の『茶道五度之書』(1743)では、朝茶、昼茶、飯後、不時茶、夜咄の五事式があげられている。また月斎峨眉山人(がびさんじん)の『茶湯早指南(ちゃのゆはやしなん)』(1808)でも「五時之事」として「昼・夜咄・朝・暁・飯後」の名があがり、続けて跡見の会が書かれているだけである。しかし、多く伝存する『茶之刻限之事』と題される写本には、「昼・夜咄・朝・暁・飯後・不時・口切」と「昼・夜咄・朝・暁・飯後・不時・跡見」の2種類があって、かならずしも一定できなかったようすがうかがわれる。それが幕末になって「七式」として定着した。ともあれ季節と場所の風情に応じた茶会は古くから成立しており、それぞれに応じた点前が披露されていたものに違いない。

 これらの茶事の基本形式は、待合(まちあい)から初座(しょざ)の露地入りをし、茶席に入って定座についたあと、初炭(しょずみ)の点前をし、懐石をふるまい、菓子を最後に持ち出して中立(なかだち)となる。その間に客方は用を足しておく。合図の銅鑼(どら)(夜は喚鐘(かんしょう))を待って客は手水(ちょうず)を使い、ふたたび躙口(にじりぐち)から入っていく。これが後入(ごい)りである。後入りのあとは濃茶(こいちゃ)を練り、これを客は数人で飲み回しにする。亭主はそのあと後炭(ごずみ)をし、薄茶を出して一会が終わる。以上は炉の季節の基本的な茶事である。風炉の季は暑いため、初座では種炭だけにしておき、懐石のあとに初炭の点前をし、菓子を食べてから中立する。また、朝茶では後炭を省き、続き薄茶といって、濃茶のあとすぐに薄茶を点てて出すことになっている。茶事はこのようにバリエーションがあって、季節と時間と客に応じた道具の取り合わせや懐石の仕立てを考えながら、主客がともに一期一会(いちごいちえ)の心で一座建立(こんりゅう)の場を楽しむための生活文化だといえよう。

[筒井紘一]

茶道の現状

茶の湯は明治以後、女礼式の一つと考えられ、女子儀礼の一つととらえる傾向が強くなり、さらに女学校をはじめとする学校や職場に茶道の稽古(けいこ)が取り入れられることにより、点前手続を中心にした女性稽古事と考えられるようになって現在まで展開している。その一方で、明治初期の平瀬露香(ひらせろこう)(亀之輔(かめのすけ))、住友春翠(しゅんすい)(15代吉左衛門友純(きちざえもんともいと))、井上世外(せがい)(馨(かおる))をはじめ、益田鈍翁(ますだどんおう)(孝(たかし))、馬越他生(まごしたせい)(恭平(きょうへい))、根津青山(ねづせいざん)(嘉一郎(かいちろう))、野村得庵(とくあん)(2代得七(とくしち))、藤田香雪(こうせつ)(伝三郎)、五島慶太(ごとうけいた)、畠山即翁(はたけやまそくおう)(一清(いっせい))、小林逸翁(いつおう)(一三(いちぞう))などを中心とした財界人による数寄者(すきもの)の茶会が盛行し、愛玩(あいがん)した美術品の多くは、個人美術館を設立して保存が行われている。また、第二次世界大戦後、わが国の高度経済成長とともに茶道人口が増大し、大寄(おおよせ)の茶会の流行という新しい茶の湯風俗の姿を現出している。現在、茶道の流儀としては表千家(おもてせんけ)・裏千家・武者小路(むしゃのこうじ)千家という三千家をはじめ、藪内(やぶのうち)流、遠州(えんしゅう)流、宗徧(そうへん)流、江戸千家、大日本茶道学会、松尾流、石州(せきしゅう)流などの流儀が、それぞれの道統を守りながら、独自の活動を続けている。

[筒井紘一]

『中村昌生他編『茶道聚錦』全12巻(1983~87・小学館)』『井上海仙他監修『原色茶道大辞典』(1975・淡交社)』『千宗室監修『茶道古典全集』全12巻(1956~62・淡交社)』『『茶道の源流』(1983・淡交社)』『芳賀幸四郎著『千利休』(1963・吉川弘文館)』『村井康彦著『茶の湯人物志』(1980・角川書店)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例