若柳村(読み)わかやなぎむら

日本歴史地名大系 「若柳村」の解説

若柳村
わかやなぎむら

[現在地名]若柳町 川南かわみなみ川北かわきた

南東流するはさま川両岸に立地し、村北部に若柳宿の町場があり、その南に我門がもん十文字じゆうもんじなか、南東部に南二又みなみふたまた大目おおめ新田しんでんなどの集落がある。いずれも平坦地だが北西部の新山にいやまがわずかに低丘陵。北は三迫の福岡さんのはさまのふくおか村、南は一迫畑岡いちはさまはたおか村、東は三迫石越いしこし(現登米郡石越町)と接する。当村は三迫に属するが、三迫は鎌倉期よりみえる郡内の広域地名で、「観蹟聞老志」によれば、中世葛西氏領の頃はしばしば大崎氏と兵を対峙させたという。「安永風土記」に迫川の川北が高倉たかくら庄、同川南金田かねた庄とあるが、高倉庄は「台記」仁平三年(一一五三)九月一四日条にみえる「奥州高鞍庄」、金田庄は康正元年(一四五五)七月二八日の某宛行状(真山文書)の「栗原郡金田庄」に関連するものと思われる。村北迫川左岸の鎮守社平野ひらの神社の境内にある寛永一四年(一六三七)銘の石灯籠に「谷地要害村」とあり、これが村名だったとすれば当時の低湿地帯のありさまがうかがわれる。

若柳村
わかやなぎむら

[現在地名]相模湖町若柳

相模川上流右岸、段丘上に位置する。北は与瀬よせ村・千木良ちぎら村、東は(現津久井町)、西は日連ひづれ(現藤野町)、南は寸沢嵐すあらし村に接する。元和五年(一六一九)までは寸沢嵐村と一村であったため(寛永一五年一二月二日「寸沢嵐村新田寅之改帳写」・正保二年「津久井領郷村水帳請取帳写」小川文書)、両村の境界は錯綜するという(風土記稿)。年未詳四月二一日将軍足利義詮書状(県史三)に、亡父尊氏が鎌倉極楽ごくらく寺に舎利会料所として「相模国毛利庄、奥三保内若柳・日連・牧野等」を寄進したことがみえる。小田原衆所領役帳に「若柳之村」として「弐貫五百文 正覚寺、四貫弐百五十文 山口大炊助、三貫八百七十文 同雅楽助、弐貫文 同侍者、一貫六百文 鈴木、一貫六百七十二文 三富、二貫三百廿七文 野呂左京亮屋敷、二貫六百文 同中納言、此外拾五貫文 大和守所務、以上卅五貫弐百二十文」とみえる。

若柳村
わかやなぎむら

[現在地名]胆沢町若柳

南下葉場みなみしたはば村・都鳥とどり村・新里にいさと村の西に位置し、西は奥羽山脈で出羽国雄勝おがち(現秋田県)に接する広大な村。村の東部は胆沢扇状地南端で、南は起伏する丘陵を境に上衣川かみころもがわ(現衣川村)。西部は標高七〇〇メートル前後から一五〇〇メートル前後までの山また山である。都鳥村から西進してきた仙北せんぼく街道が蛇行する胆沢川南岸沿いに当村内下嵐江おろせ宿に向かう。同宿からは中山なかやま道ともいう山道で、出羽手倉川原てぐらかわら宿(現雄勝郡東成瀬村)に至る。当村の茂井羅しげいら金入道かなにゆうどうから胆沢川の水を引く茂井羅堰寿庵じゆあん堰が扇状地を東流・南東流し、現胆沢町の諸村のほか現水沢市・前沢まえさわ町の村々を潤している(水沢市の→茂井羅堰 →寿庵堰

若柳村
わかやなぎむら

[現在地名]下妻市若柳

小貝こかい川右岸、下妻台地の東縁部にあり、南は北大宝きただいほう村、南西忠左衛門ちゆうざえもん新田。室町中期以降は多賀谷氏の支配下にあり、慶長六年(一六〇一)同氏改易後は天領となる。その後古河藩領・土井利益(のち古河藩主)領となり(寛文朱印留)、天和元年(一六八一)に土井氏移封後は旗本領となる。元禄郷帳の村高は一千四四五石余であるが、のち村内は嘉兵衛組・善右衛門組・牧(槙)ノ内組の三組に分割された(新編常陸国誌)。幕末は嘉兵衛組が旗本小浜稲生多田・柘植各氏の四給地で、合せて二九四石余。善右衛門組が旗本小宮山・小浜・稲生・柘植各氏の四給地で、合せて三五九石余、ほかに薬師堂などの除地四石余があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報