胆沢郡(読み)いさわぐん

日本歴史地名大系 「胆沢郡」の解説

胆沢郡
いさわぐん

面積:七一四・六〇平方キロ
前沢まえさわ町・衣川ころもがわ村・胆沢いさわ町・金ヶ崎かねがさき

県の南端近くの北上川右岸に位置し、西は奥羽山脈に至る。かつての胆沢郡のうち胆沢扇状地の東部と北上川左岸地域が水沢市、一部が北上市となり、磐井いわい郡の一部が前沢町に含まれたため現在の地域呼称としての胆沢郡は、北は和賀郡湯田ゆだ町・同郡和賀町・北上市、東は江刺市・水沢市・東磐井郡東山ひがしやま町、南は西磐井郡平泉町・一関市、西は奥羽山脈の山々で秋田県雄勝おがち東成瀬ひがしなるせ村に接し、北から金ヶ崎町・胆沢町・衣川村と続き、胆沢町・衣川村の東に前沢町が位置する。金ヶ崎町と胆沢町の間を流れる胆沢川を境に、金ヶ崎町東部は六原ろくはら扇状地、胆沢町東部と前沢町は胆沢扇状地に立地して低丘陵と平坦地が多い。金ヶ崎町の西部は奥羽山脈に連なる山地で、和賀町との境にこまヶ岳(一一二九・八メートル)がそびえる。胆沢町の西部は焼石やけいし(一五四八・一メートル)よこ(一四七三メートル)獅子ヶ鼻ししがはな(一二九三・六メートル)などの山々が連なり、胆沢川の水源地帯をなしている。衣川村はその北辺が胆沢扇状地の南端で丘陵が起伏し、西の胆沢町との境にある高檜能たかひのう(九二七・一メートル)を最高峰として東へしだいに高度を下げ、東端は北上川の氾濫原に至る。北辺の丘陵を南東流し、途中南股みなみまた川を合せて北上川に注ぐのが、古来歌枕として知られる衣川である。南北の主交通路は東部をほぼ並行して走るJR東北本線、国道四号(旧奥州街道)・東北自動車道、東西は国道三九七号(旧仙北街道)駒ヶ岳・焼石岳一帯は栗駒くりこま国定公園に含まれる。

郡名は「日本後紀」延暦二三年(八〇四)五月一〇日条に初見。訓は「和名抄」東急本国郡部に「伊佐波」とあり、異訓はない。なお中世から近世初期にかけては伊沢と書かれることが多く、この時期松良まつら郡・松浦まつら郡の称もあった(「葛西実記」岩手叢書)。葛西氏の私称であろう。

〔原始〕

旧石器時代の遺物は、胆沢町上萩森かみはぎもり遺跡・上布佐かみふさ遺跡、前沢町白山しらやま遺跡から出土している。縄文時代早期の遺物を出土させる遺跡としては、胆沢町尼坂あまさか遺跡・添町そいまち遺跡・宮沢原下みやざわはらしも遺跡、前沢町白鳥しろとり遺跡、金ヶ崎町橇引沢東そりひきざわひがし遺跡がある。尼坂遺跡は縄文時代早期・前期、平安時代の複合遺跡である。前期・中期になると広い範囲を占める遺跡が現れるとともに、その数が増してくる。胆沢町宮沢原遺跡群・浅野あさの遺跡、金ヶ崎町千貫石せんがいし遺跡群・高谷野原こうやのはら遺跡群・中荒巻なかあらまき遺跡、前沢町小林こばやし遺跡、衣川村北館きただて遺跡が代表的なものとしてあげられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報