興禅院(読み)こうぜんいん

日本歴史地名大系 「興禅院」の解説

興禅院
こうぜんいん

[現在地名]湯布院町川南 東石松

由布院ゆふいん盆地のほぼ中央、東石松ひがしいしまつの字田中市たなかいちにある。竜雲山と号し、本尊釈迦如来文殊菩薩普賢菩薩曹洞宗。寺伝によれば最初は鶴見つるみ岳の麓(現別府市南立石会下字興禅院)に建徳元年(一三七〇)大内義興によって創建され、国東泉福くにさきせんぷく(現国東町)開山無著妙融を招いて開山とした。その後文明五年(一四七三)七世忠警恵言が現在地に移した。天正年間(一五七三―九二)由布院村人はその大半がキリシタンとなり、教会堂が興禅院の地に建てられたといわれている。しかし天正一五年豊薩戦争のため破壊されたと伝える。文禄五年(一五九六)七月一日から連日大地震があり、七日には大風雨もあって椿つばき山が崩れ、馬場ばば八川やつかわ両村が埋まり、このとき当院もその土砂で倒壊した。

興禅院
こうぜんいん

[現在地名]東和町田瀬

田瀬たせ湖西岸丘陵にある。砥峰山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。寺伝によれば寺沢てらざわ(田瀬ダムで水没)に草庵を営んでいた融室全祝(土沢浄光寺二世)に帰依した江刺兵庫頭重恒が、文禄元年(一五九二)同地に堂宇建立、全祝を開山としたという。寺号は慶長九年(一六〇四)没した江刺重隆の法名興禅院殿に起因するとみられ、それ以前の寺号は不明。文禄元年七月に没した重恒と重隆の墓所となる。元文五年(一七四〇)焼亡し、明和三年(一七六六)再建されたが、このとき重恒と重隆の墓碑も建立されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報