興国寺城跡(読み)こうこくじじようあと

日本歴史地名大系 「興国寺城跡」の解説

興国寺城跡
こうこくじじようあと

[現在地名]沼津市根古屋

愛鷹あしたか山南麓の尾根の突端を利用して築かれた平山城で、戦国時代から江戸時代初頭まで使われた。かつての浮島うきしま沼の汀線にあたり、三方を深田で囲まれ、城の南を根方ねがた街道が通っている。北から本丸(一の郭)・二の丸・三の丸と続く連郭式城郭で、現在は三方に土塁を巡らした本丸遺構が保存されている(二の丸との境の土塁は現存しない)。土塁の北東部には石塁を施した櫓台跡が、また本丸の北には大規模な空堀があり、その外部に広い郭がある。現在三の丸は住宅地となっている。

今川氏親の家督相続に功績のあった伊勢新九郎(北条早雲)が、長享元年(一四八七)頃に富士郡下方しもかた一二郷(現富士市)を与えられ、興国寺城に移ったとされる(「今川家譜」など)。早雲は明応二年(一四九三)堀越公方を攻撃し伊豆韮山にらやま(現韮山町)に移った。河東一乱の後、今川氏は駿東地方の防衛強化のため城の拡大を図り、天文一八年(一五四九)には、城名の由来となった興国寺を移転させ、その敷地・田畠を城郭とした(同年二月二八日「今川義元判物写」諸州古文書)。翌年には、周辺の土豪杉山惣兵衛らに三〇〇貫文役の城番を命じ(天文一九年四月晦日「今川義元判物写」判物証文写)、同二一年には秋山三郎左衛門尉に普請役を課している(同年正月二三日「今川義元朱印状」秋山文書)。また永禄四年(一五六一)八月二五日には、「富士山造」四〇人に対し、城の普請を勤めている代償として、森林伐採に対する諸役の免除などを保証している(「今川氏真朱印状」井出文書)

今川氏が衰退すると、当城をめぐり武田氏と北条氏との争奪戦が繰広げられた。永禄一一年末には、いったん武田方の手に落ちた城を北条方が奪回し(年欠一二月二八日「由良成繁覚書案」上杉家文書)、翌年には城将となった垪和氏続が城に橋を架けるための用材確保を図っている(永禄一二年一月一九日「垪和氏続判物」多聞坊文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「興国寺城跡」の解説

こうこくじじょうあと【興国寺城跡】


静岡県沼津市根古屋にある城跡。富士山南麓の愛鷹(あしたか)山から延びる尾根の突端部を利用して築城され、南方の湿地帯が人馬の侵入を防ぎ、東西には根方街道と呼ばれる道が走る交通の要衝に立地する。城は北曲輪(くるわ)・本丸・二の丸・三の丸からなり、土塁に囲まれた曲輪が南北に続く。本丸の標高は36m、土塁内側で東西60m、南北50mの規模があり、最高部に天守台と伝えられる建物の礎石が残る。また、本丸の東方には石火矢台(石火矢は大砲の意)、本丸と北曲輪の間には尾根を分断する深さ18mにも達する空濠、三の丸南端にも土塁跡が見られる。これらの遺構は江戸時代の浅野文庫蔵『興国寺城絵図』に描かれている。築城年は不明ながら、文明年間(1469~87年)には築城されていたと推定され、のちの戦国大名、北条早雲の最初の居城として知られている。1488年(長享2)、駿河守護今川義忠の側室であった妹を頼って今川氏に身を寄せていた伊勢新九郎盛時(北条早雲)は、義忠急死後の今川家の家督争いで氏親(うじちか)を助け、その功によって駿河国富士郡下方(しもかた)庄を与えられ、興国寺城主となった。その後、早雲は堀越公方(ほりごえくぼう)足利茶々丸を滅ぼし、伊豆の領主となって韮山(にらやま)城に移ることになるが、1549年(天文18)には今川義元が城地にあった興国寺を移転して、城地を拡大している。1568年(永禄11)、今川氏が滅亡すると、武田氏の駿河侵攻に対抗して北条氏政・北条氏邦が駿河に侵出して興国寺城主となり、対武田氏の最前線の拠点として重視された。1571年(元亀2)に後北条・武田の同盟が成立して以降は武田方の城となり、穴山梅雪の持ち城となった。1582年(天正10)まで武田氏の支配下におかれるが、武田勝頼滅亡後は徳川家康の城となり、家康の関東移封や関ヶ原の戦いを経て、1607年(慶長12)に廃城となった。1995年(平成7)、国の史跡に指定され、2007年(平成19)に追加指定があった。JR東海道本線ほか沼津駅から富士急バス「東根古屋」下車、徒歩約5分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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