根古屋村(読み)ねごやむら

日本歴史地名大系 「根古屋村」の解説

根古屋村
ねごやむら

[現在地名]静岡市根古屋

有度山うどさん丘陵南麓に位置し、西は安居あご村。南は駿河湾に面する。久能山(二一六メートル)には久能寺跡に建立された久能山東照宮がある。根小屋とも書く。元亀四年(一五七三)と推定される六月二六日の上杉輝虎書状写(赤見文書)によると、徳川家康が五月上旬以降に「久(能)・根小屋」から駿府に進軍して引返している。領主西平松にしひらまつ村と同じ。

根古屋村
ねごやむら

[現在地名]騎西町根古屋

外川そとかわ村および騎西町場きさいまちばの東に小さい谷を隔てて位置する。寛永九年(一六三二)まで私市きさい城があり、同城の根古屋集落であったと考えられる。古くは騎西町場と一村であったと伝え、小名に足軽町あしがるまち城耕地しろごうち代官町だいかんまちなどがある(風土記稿)。寛永頃の報恩院末寺帳(醍醐寺文書)に「武州騎西庄根小埜村金剛院」とみえる。田園簿によると田高六六石余・畑高九四石余、川越藩領。領主の変遷は騎西町場に同じ。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高二三〇石余、反別は田方一〇町七反余・畑方一二町七反余。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記によるとほかに一一九石余があった。

根古屋村
ねごやむら

[現在地名]沼津市根古屋

愛鷹あしたか山の南麓、高橋たかはし川の支流井出大いでおお川の左岸に位置する。東は青野おおの村、西は井出村に接し、南にはら宿がある。村内を根方ねがた街道が東西に通り、集落もこの街道沿いに形成され、集落の北東に興国寺こうこくじ城跡がある。慶長六年(一六〇一)興国寺城主天野康景領(興国寺藩領)となるが、同一二年興国寺藩が廃藩になったため幕府領となった。その後の支配の変遷はつまびらかでないが、文化年間(一八〇四―一八)には相模国小田原藩大久保氏の一族、旗本大久保領となり(駿河記)、同領で幕末に至った。

根古屋村
ねごやむら

[現在地名]新城市豊島とよしま

定池さだいけ村北方の台地周辺にある。慶長五年(一六〇〇)幕府領となり、寛永二年(一六二五)から二千石の旗本島田成重の領地となり、さらに正徳四年(一七一四)より同じく二千石の旗本中根正包の領地となって明治に至る。元禄一三年(一七〇〇)免状(根古屋区有)では本田二六石余・本畑三石余・新切一二石余の村である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android