腰越状(読み)コシゴエジョウ

デジタル大辞泉 「腰越状」の意味・読み・例文・類語

こしごえ‐じょう〔‐ジヤウ〕【腰越状】

文治元年(1185)平家討滅後、源義経が兄頼朝の命に反したという理由鎌倉に入ることを許されず、無実を訴えて腰越から大江広元あてに、頼朝へのとりなしを依頼して出したという書状

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精選版 日本国語大辞典 「腰越状」の意味・読み・例文・類語

こしごえ‐じょう ‥ジャウ【腰越状】

義経が腰越の駅から出した書状。文治元年(一一八五)五月、平氏追討に功績があったが、兄頼朝の不興を蒙って、鎌倉への凱旋(がいせん)を許されなかった義経が、頼朝の誤解を解くために鎌倉幕府公文所別当の大江広元にあててその心中を記述したもの。「吾妻鏡」(文治元年五月二四日条)に全文収録。ただし、その真偽については疑問が持たれている。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「腰越状」の意味・わかりやすい解説

腰越状
こしごえじょう

源義経(よしつね)が書いたと伝えられる書状。義経は1185年(文治1)3月、平氏を壇ノ浦に滅ぼし、宗盛(むねもり)父子俘虜(ふりょ)として伴い相模(さがみ)の腰越(鎌倉市内)まで帰ってきたが、兄頼朝(よりとも)の不興を買って鎌倉に入るのを許されなかった。そこで同年5月24日、腰越から幕府の重臣大江広元(おおえのひろもと)にあてて、頼朝へのとりなしを頼んで書いたと伝えられる。全文は『吾妻鏡(あづまかがみ)』に載せられているが、真偽については疑問がもたれている。結局、願いはいれられず、むなしく京都に引き返した。

[新田英治]

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改訂新版 世界大百科事典 「腰越状」の意味・わかりやすい解説

腰越状 (こしごえじょう)

1185年(文治1)5月,源頼朝の不興を被って鎌倉入りを拒まれ,鎌倉の外の腰越にとどめられた源義経が,大江広元に取りなしを求めた書状。《吾妻鏡》に全文を収めるが,その真偽については不明である。平氏を滅ぼす戦功をたてた義経に対し,頼朝がこの措置に出たのは,義経が鎌倉政権の承認を経ないで朝廷任官を受けたためであり,本書状によっても義経が鎌倉に入ることは実現しなかった。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「腰越状」の解説

腰越状
こしごえじょう

1185年(文治元)5月24日,源義経が相模国腰越駅(鎌倉市)から大江広元(ひろもと)に出した書状。「吾妻鏡」に収録。平氏を滅ぼして帰還した義経は,鎌倉の手前腰越駅で足止めされた。この書状は,平治の乱以後の流浪の日々,数々の軍功,大夫尉補任が源家の名誉であることをのべ,兄頼朝の不興が周囲の讒言(ざんげん)による誤解であることを主張。しかし鎌倉入りは許されず,義経は京都に引き返して頼朝追討を決意するにいたる。室町時代には「義経記」に記載され幸若舞の素材となり(「腰越」),義経の悲劇として語られた。江戸時代には,「古状揃」に収録され,読本の教科書として広く読まれた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「腰越状」の意味・わかりやすい解説

腰越状
こしごえじょう

文治1 (1185) 年5月 24日,源義経が兄頼朝の不興を解くため,相模腰越駅から大江広元に斡旋を依頼した書状。義経が平家追討の功により,頼朝の意に反して朝官に任じられたり,専横な行為をしたとして,頼朝は鎌倉への凱旋を許さなかった。義経は腰越にとどまり異心なき事を述べて許しを請うたが,公文所別当の広元にその願いを入れられず,ついに反旗を翻すにいたった。腰越状の全文は『吾妻鏡』に収録されている。

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世界大百科事典(旧版)内の腰越状の言及

【義経腰越状】より

…3段。通称《五斗三番叟(ごとさんばそう)》,《腰越状》。千簬荘主人,一説には並木永輔作。…

※「腰越状」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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