米丸村(読み)よねまるむら

日本歴史地名大系 「米丸村」の解説

米丸村
よねまるむら

[現在地名]蒲生町米丸

南流する後郷うしろごう川の流域に位置し、南は上久徳かみぎゆうとく村・きた村。現在の後郷川は地内柊野くきのの北で木津志きづし川を合流しているが、「三国名勝図会」に後郷川はうしろ川とみえ、「水源二ケ所、一は当郡山田木津志村、一は当邑うるし村に出て、共に米丸村に注」ぐとある。なお柊野は昭和三〇年(一九五五)山田やまだ村・帖佐ちようさ町・重富しげとみ村が合併して現姶良町が成立する際、山田村大字木津志の一部として蒲生町米丸に編入された。

中世蒲生院のうちにあった。建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)によると、蒲生院一四二町三〇〇歩のうちに「末丸十七丁七段」がみえるが、これは米丸の誤記とみられる。したがって米丸は貢進田九段を除いて定田一六町八段で、一丈六尺八寸の石築地役を負担し、領主は郡司伊賀房行公。弘安一〇年(一二八七)七月日の宮侍守公神結番次第写(同家譜)の六番に「蒲生米丸」とみえる。

米丸村
よねまるむら

[現在地名]浅羽町浅岡あさおか

長溝ながみぞ村の東側に位置する。正保郷帳に村名がみえ、横須賀藩領。田方三一六石余・畑方五〇石余、立寿院(理春庵)領一石五斗。元禄一一年(一六九八)旗本皆川領となり(国立史料館本元禄郷帳など)、嘉永五年(一八五二)幕府領、同六年近江国三上藩領、万延二年(一八六一)上知され、同年陸奥国平藩領を経て文久二年(一八六三)幕府領となる(安政二年「前川通再嘆願書」原家文書、文久二年「悪水一件済口証文」田代家文書、元治元年「新規用水嘆願書」小池家文書など)

米丸村
よねまるむら

[現在地名]湯川村清水田しみずた

湯川右岸にあり、西は湯川を隔てて熊川くまがわ村、南東森台もりだい村、北は笠目かさのめ村。「会津古塁記」によると、昔は礒川いそかわ村といい、応永年中(一三九四―一四二八)に米丸三郎良成が米丸村柵を築き、天正(一五七三―九二)頃には栗村越中信連が居住していたと記される。字まるうち柵跡と推定される。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高四一五石余。文化一五年(一八一八)の村日記では高四五五石余。化政期の家数一六(新編会津風土記)。明治四年(一八七一)の家数一六(寺一)・人数九二(人員録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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