稲積城跡(読み)いなづみじようあと

日本歴史地名大系 「稲積城跡」の解説

稲積城跡
いなづみじようあと

[現在地名]烏山町下境

那珂川左岸の中洲状の台地にある中世那須氏の居城。北・東・南を取巻く同川旧河川敷低地からの比高は一五―二五メートル。北方には平井ひらい城跡がある。居館の連郭式で、小字名により北から外城・中城・御城の三郭からなっていたと考えられ、南北約八〇〇メートル、東西は中城で約二〇〇メートル、外城で約三〇〇メートル。ほかに土塁・井戸・堀・烽火台・矢場などの存在が認められる。築城は天仁二年(一一〇九)那須氏二代資通とも、永万元年(一一六五)六代宗資(一説に改修)とも伝える。

稲積城跡
いなつみじようあと

[現在地名]益田市土井町

七尾ななお城の南西約二・五キロ、七尾山から山一つを隔てた稲積山に築かれた南朝方の城跡。近年山が削り取られ、城跡は消滅してしまった。南朝方の国司として石見に下っていた日野邦光は、暦応三年(一三四〇)益田氏の虚を突いて稲積山を占拠し、高津小山たかつおやま城主高津長幸豊田とよた城主内田致員・三隅高みすみたか(現三隅町)城主三隅兼連などと相呼応して兵を挙げた。事の意外に驚いた益田兼見は、同年八月一九日以来昼夜を分たず攻撃を加え、ついに翌年二月一八日夜これを落した(同四年二月日・同年三月日「藤原兼躬軍忠状」益田家文書)。この間の暦応四年一月一八日、日野邦光の支援要請を受けた三隅兼連は、夜陰に紛れて稲積城に兵糧米を搬入しようとし、三宅御土居みやけおどいと益田川に挟まれた袴田挟所はかまだきようしよにおいて益田軍と激戦を展開したが、兼連の家人藤三が討死するなど、益田軍の勝利に終わり、兵糧の搬入は阻止された(同年三月日「藤原兼躬軍忠状」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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