福村(読み)ふくむら

日本歴史地名大系 「福村」の解説

福村
ふくむら

[現在地名]菰野町福村

宿野しゆくの村の北に接し、三滝みたき川の南岸に位置する。「平治物語」流布本に「義盛が父伊勢郡司俊盛は、三重郡福村に居り、其の先未詳。其の子義盛此の邑に生誕して後(後略)」と現れる。そして伊勢三郎義盛の屋敷跡と称するものが後世まで残っていた(勢陽雑記)。当村は吉沢よしざわ村の枝村説(吉沢村地誌)と宿野村の枝村説(五鈴遺響)とがあるが、そのいずれであるか成立時期なども不明。天正一二年(一五八四)頃の織田信雄分限帳には家臣太田助兵衛が吉沢・福村で「弐百貫」を知行していた。

福村
ふくむら

[現在地名]西淀川区福町一―三丁目

御幣島みてじま村の南西にあり、東は中島なかじま大水道を挟んで稗島ひえじま村、西は神崎川の分流を隔てて大和田おおわだ村・大野おおの村。正保元年(一六四四)大野村の樋口弥一兵衛の子忠兵衛が開発したという。同年大坂御船手小浜嘉隆の検地で一四町九反余、延宝五年(一六七七)検地で一六町八反余・高一八五石余(西成郡史)。なお、延宝検地以前の高を示すと思われる天和三年(一六八三)頃の摂津国御料私領村高帳では高四二石余・葭高一三八石余。前掲御料私領村高帳・元禄郷帳ともに幕府領で、幕末にも幕府領。当村は農業とともに漁業生業とする。享和四年(一八〇四)大坂町奉行所への上書に網役運上銀六二匁・門取漁運上銀二一匁三分とあり、文政一二年(一八二九)年貢割付状によれば魚小物成銀五匁一分・門取漁運上二一匁九分・網役銀六二匁五分・机網運上銀一六匁五分となっていた(西成郡史)

福村
ふくむら

[現在地名]福井市福町・福新ふくしん

八幡はちまん山の西北麓にあり、東は門前もんぜん村、西北方は東下野ひがししもの加茂河原かもがわら若杉わかすぎの飛地に囲まれる。古代の道守ちもり庄、中世のやしろ庄の中央部にありながら、日野川・足羽川八幡山に囲まれた後背湿地であるため、開発は遅れたと思われる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図には「君塚村」と記され、高三六七・一四八石。正保郷帳から福村となる。「足羽社記略」は「殿下塚きみづか 気味津加、今云福村」と記す。

福村
ふくむら

[現在地名]弘前市福村

弘前城下の東にあり、東はひら川に面し、西は福田ふくだ村、北西境関さかいぜき村、南は新里にさと村に続く。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の平賀ひらか郡に村名があり、村高三七九・七一石、うち田方は三四五・五四石とある。寛文四年(一六六四)の高辻帳でも村高は変わらない。貞享四年(一六八七)検地帳によれば、村高八八一・九七九石と倍以上になり、うち田方七三六・五〇一石、畑方一四五・四七八石。田位は上々田から下々田まで、斗代は上々田が一・四石と高い。重太夫抱の熊野堂があった。漆木は三千六一五本と非常に多い。屋敷地は郷蔵屋敷を含んで一〇・五九七石、屋敷持は二三名と比較的少なく、隣接する他村落や、平川の対岸日沼ひぬま(現南津軽郡尾上町)、弘前城下などからの入作者が多かったと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報