石橋村(読み)いしばしむら

日本歴史地名大系 「石橋村」の解説

石橋村
いしばしむら

[現在地名]境川村石橋

境川ときつね川の河間に位置する。狐川は北西流してあさ川へ合流し、西は大坪おおつぼ村、北方浅川の対岸は米倉よねくら(現八代町)。地内はほぼ平坦で南東から北西へ向かって緩やかに傾斜している。もとは大坪・三椚みつくぬぎの両村と一村であったと伝え(甲斐国志)、中世は石橋郷に含まれたと考えられる。

慶長古高帳に石橋とみえ高七六九石余、幕府領。ほかに八幡領三石六斗。貞享二年采地簿(臆乗鈔)には旗本小幡・本郷がみえ、両家とも寛永一〇年(一六三三)に八代郡などで加増を受けている(寛政重修諸家譜)。元禄郷帳でも同じ二家領でほかに八幡領。宝永二年(一七〇五)以降の領主の変遷は大坪村に同じ。享保九年(一七二四)の村明細帳(大須賀和夫家文書)によれば、慶長六年(一六〇一)の検地高七六九石余、ほかに新田一〇石余があり総高七七九石余。

石橋村
いしばしむら

[現在地名]東松山市石橋・新郷しんごう

下青鳥しもおおどり村の西に位置し、北は羽尾はねお(現滑川町)。松山領に属した(風土記稿)。南辺を都幾とき川が東流し、村域は同川左岸の低地から東松山台地にかけて展開する。北部に宿青鳥しゆくおおどり、中央部に内青鳥うちおおどり、南部に石橋の各小名がある。宿青鳥は昔、宿駅であったと伝え、化政期にも町割の跡が残っていたという。また内青鳥には中世の青鳥城跡がある(風土記稿)。小田原衆所領役帳には諸足軽衆の多米新左衛門に与えられた所領のうちに「四拾五貫文 松山筋石橋卯検見」とあり、弘治元年(一五五五)に検地が行われている。天正一八年(一五九〇)六月三日の前田利家書状写(寸錦雑編)に「石橋と申村、上之野に古城有之」などとみえる。

石橋村
いしばしむら

[現在地名]小田原市石橋

東は相模湾、西は石橋山が海に迫り、南は米神こめかみ村、北は早川はやかわ村と接し、海沿いを熱海道が通る。「吾妻鏡」治承四年(一一八〇)八月二三日条に「武衛相率北条殿父子(中略)以下三百騎、陣于相模国石橋給、(中略)平家被官之輩、率三千余騎精兵、同在石橋辺」とあり、源頼朝が挙兵後に敗北した石橋山の合戦場になった。明応四年(一四九五)北条早雲の小田原攻めの際も「北条記」に「石橋こめかみの辺より螺を吹揚鬨を作」とある。

石橋村
いしばしむら

[現在地名]綾部市八津合やつあい町 石橋

しろ山の西南麓に位置する。東は馬場ばば村、南は浅原あずら村、西北は上林かんばやし川を隔てて日置殿へきどの村・寺町てらまち西屋神谷にしやこうだに村。旗本城下藤懸氏領。

中世は上林庄の地。文明二年(一四七〇)の川北奥太夫覚状(川北家文書)に「石橋村」とみえるのが早い。

慶長六年(一六〇一)藤懸永勝が減封されて六千石の旗本として入部し、村内の城山の山麓に陣屋を構えた。陣屋を中心に小規模ながら城下町をつくり城下しろしたとよんだので、藤懸氏の本家を城下藤懸という。

石橋村
いしばしむら

[現在地名]平田町石橋

天神堂てんじんどう村の北にあり、東は桜林さくらばやし村、西は本川ほんかわ(現酒田市)。南を大町おおまち堰が西流する。北側には平安―室町期の集落跡早稲田わせだ遺跡がある。天正一九年(一五九一)大町堰の開削の後に成立。

元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に石橋興野村とあり高一九石余。寛永元年庄内高辻帳にも石橋興野村とあり高一五七石余。正保庄内絵図(本間美術館蔵)には石橋村とみえ高一六三石余。家数は元和一〇年の元和以来色々調(飽海郡誌)に七、貞享年間(一六八四―八八)の村組付(同書)に一一とある。

石橋村
いしばしむら

[現在地名]安塚町石橋

北流する小黒おぐろ川の左岸段丘上にある。北は安塚村、東は小黒川を挟んで上方かみがた村、西は花立はなたて峠を越えてたに(現浦川原村)に通じる。北から石仏せきぶつ神明住しんめいずみ堂脇どうわき能念寺のうねんじ太子分たいしぶん善正寺ぜんしようじなどの宗教地名が並び、寺社などを中心として発達した村と思われる。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「御料所此外五方分石橋村 上」とあり、本納四八石七升八合・縄高九八石四合、家一三軒・四三人。正保国絵図では高二〇一石余。天和三年郷帳では高一八三石一斗余、うち山高一石八斗二升六合・漆高四石四斗九升・青苧高一石九斗五升、反別田一〇町六反余・畑屋敷五町八反余・山林七町六反余・青苧畑一反余で漆木四四九本。

石橋村
いしばしむら

[現在地名]温泉町石橋

まえ村の南にある。集落は北流する岸田きしだ川の左岸に発達、集落南方には馬場平ばばがなるの台地がある。岸田川に沿って北上する道は千谷ちだに村で山陰道に合流する。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「いしはし」とある。また同日記にみえる「はゝ村」は馬場平に比定される。江戸時代の領主の変遷は村に同じ。郡中惣高(福井家文書)では太閤検地高とみられる古高一二四石余。元和三年(一六一七)の宮城豊盛領二方郡高帳でも高は同じで、小物成の山手米八斗一升、桑手の綿五七〇匁が課せられていた。

石橋村
いしばしむら

[現在地名]宇土市石橋町・入地いりち

東は馬場ばば村・栗崎くりざき村、南は神山こうやま村、北西は宮荘みやのしよう村に接し、東は平坦、南・北は高低があり、西は山林に覆われる。村の中央に居屋敷いやしき、北東に前田まえだ、東に御領橋ごりようばし、南東に油林あぶらばやし、南に端谷はしだに、西に円寿院えんじゆいん白山はくさんなどの字地がある(郡村誌)。慶長国絵図に村名がみえ、近世は郡浦手永に属した。正保郷帳では田方二五一石余・畠方八七石四斗余。「国誌」に「轟ト云小村アリ」とある。天保八年(一八三七)の郡浦手永略手鑑によると宇土知行所の村、竈数五〇・人数二一九、本方五〇〇石六斗余、田二五町三反・畑一一町四反三畝余、永荒畑一町六反四畝余、諸開二反二畝余や茶床がある。

石橋村
いしばしむら

[現在地名]池田市石橋一丁目・同三―四丁目

玉坂たまさか村の南西に位置し、村内で西国街道(山崎通)能勢のせ街道が交差する。永享元年(一四二九)八月日の春日社神供料所摂州桜井郷本新田畠帳(今西家文書)にみえる桜井さくらい(現豊中市)への出作者のなかに「石橋 左衛門次郎」とみえる。元和年間(一六一五―二四)以降麻田藩領。寛永―正保期(一六二四―四八)の摂津国高帳によると村高四四二石余。一九世紀初頭の山崎通分間延絵図によると、西国街道が玉坂村から当村へ入る所の両側に一里塚があり、それより道の東側に弁天塚・地蔵堂・弁天が続き、能勢街道との交差地の角に郷蔵が建っている。

石橋村
いしばしむら

[現在地名]一志町石橋

雲出くもず川東岸にあり、北東は其倉そのくら村、南は大仰おおのき村に接する。応永末年頃の鏑矢伊勢宮方記(櫟木文書)に「波弖御厨 御祈祷米 同石橋御贄 鮎鮨一口一箇」とあり、当地より鮎鮨を献納している。近世は慶長一三年(一六〇八)以降津藩領で寛文九年(一六六九)以降は久居藩領。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳では大仰・其倉とともにまとめられている。慶安郷帳(明大刑博蔵)では旱損所であった。

石橋村
いしばしむら

[現在地名]福井市石橋町

石新保いししんぼ村の西にあり、その西に三里浜さんりばま砂丘が広がる。慶長三年(一五九八)の越前国西方塩浜御検地帳(広浜家文書)に「石はし村」とみえ、村浜は二九二間、名請人は新右衛門と惣中で、「しほかま 九ツ」とあり、製塩を行っていた。江戸時代には大野城下にまで塩を輸送し交易しており、明和六年(一七六九)の三里浜入会之場所担証文(上田家文書)によると、三里浜に入浜権をもって鰯漁も行っていた。

石橋村
いしばしむら

[現在地名]稲沢市石橋町

東は木全きまた村・稲葉いなば村に接し、北境を宮田用水しま(塩江川)が流れ、西境から美濃路が通り、この北東に人家が集中し、街道沿いには出町もあった(天保村絵図)。元応二年(一三二〇)中島承念譲状案(妙興寺文書)に「一所四段 門田六反 石橋同寺田」とみえる。酒井家文書によると天正末頃織田信雄が幅五間の幹線道路築造を命じた判物に石橋とみえ、幅三間の支線道路築造を命じた判物に「一、木全・石橋へ桜木、よこち」とみえ、家臣赤林甚右衛門と小林殿の知行地であった(織田信雄分限帳)

石橋村
いしばしむら

[現在地名]西春町石橋

おき村の北にあり、東部を水場みずば川が流れている。この村から東北へかけて条里制の遺構がみられる。織田信雄分限帳に「九拾貫文 うふく寺 石はし両郷之内 稲田弥三郎」などとみえる。

寛文一一年(一六七一)には家数五四、男一七四人・女一四〇人(寛文覚書)。「徇行記」によれば、田は二二町一反九畝余、畑は一七町二反九畝余で、概高五五三石余のほとんどが藩士七人の給知。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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