知見村(読み)ちみむら

日本歴史地名大系 「知見村」の解説

知見村
ちみむら

[現在地名]美山町大字知見

知井ちい一二ヵ村の一。由良川の支流知見谷ちみだに川の最上流に位置し、若狭(小浜)街道に沿う。四方を山に囲まれ川沿いに開けるが、北東の知井坂を越えると若狭国(現福井県)、川を下ると知見中村。伝えによれば古代丹波と若狭の国境で戦闘が起こった時、流血が坂道を覆い血が川のように流れたので血見ちみ谷の名が生れ、射られた矢が集中した地を矢原やはら(八原)、戦士の宿泊地を大泊おおとまりと称し、村名の知見も血見から起こったという。古代は「和名抄」に記す弓削ゆげ郷に属し、鎌倉時代以降は知井庄の地。

慶長七年(一六〇二)幕府領、天保六年(一八三五)より園部藩領となる。

知見村
ちみむら

[現在地名]日高町知見

佐田さた村の南、南北に狭長な知見谷に位置する。戦国時代には楽前ささのくま庄南庄西方のうち。明応四年(一四九五)一一月二一日、山名政豊は「楽々前南庄北分・同庄知見分・同井田分并段銭方切符弐拾貫文」等を安田千松丸に安堵している(「山名政豊書下案」垣谷文書)。同年八月九日の楽前南庄段銭注文案(同文書)では、知見分で二町四反六三歩のうち明禅寺殿七反を除く一町七反六三歩の段銭三貫四二〇文(段別二〇〇文)が、右の二〇貫文のうちとして千松丸が控除することを認められている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報