大庭御厨(読み)おおばのみくりや

日本歴史地名大系 「大庭御厨」の解説

大庭御厨
おおばのみくりや

現藤沢市・茅ヶ崎ちがさき市一帯に平安時代後期から室町時代中期まであった伊勢神宮領の御厨。保延七年(一一四一)六月日の相模国司解案(県史一)によれば後三年の役で源義家に従って奮戦し勇名をあげた鎌倉権五郎景正(景政)は、高座こうざ大庭郷付近の山野を浮浪人を招き寄せて開発、神宮の御厨とすることを長治年中(一一〇四―〇六)に相模国司から許可され、開発地域からの年貢を一定期間免除された。その後は年貢が賦課されるのが通例なので、景正は永久四年(一一一六)・元永元年(一一一八)・天承元年(一一三一)・同二年と代々の国司から免許状を獲得した末、永治元年(一一四一)に至って宣旨により正式に御厨として承認された(建久三年八月「伊勢大神宮神領注文」神宮雑書)。なお「吾妻鏡」養和二年(一一八二)二月八日条では神宮へ寄進されたのは永久五年一〇月二三日とする。いわゆる開発領主による荘園寄進の一例で、御厨成立後は伊勢内宮領とされ、寄進の仲介役となった伊勢恒吉(内宮の神官の荒木田氏の一人であろうが、実名は不明)が支配した。内宮が本家、恒吉が領家および預所に相当する地位についたものとみられる。現地を支配する荘官にはもちろん景正が任命されたであろう。長承三年(一一三四)閏一二月二三日の相模国司解(県史一)にみえる御厨司平景継、天養二年(一一四五)三月四日の官宣旨案(同書)にみえる前年時の下司平景宗はいずれも景正の子孫か一族にあたる。景宗の子の大庭景義・景親兄弟は源平合戦において大いに活躍したが、下司の地位は彼らに相伝されたに違いない。

天養元年当時の御厨の境界は、東は玉輪たまなわ(現鎌倉市)との間を流れる俣野またの(現境川)、南は海、西は相模国一宮の寒川さむかわ(現高座郡寒川町)の社領である神郷との境、北は大牧おおまき崎と定められていた(天養二年二月三日「官宣旨案」同書)。また鎌倉末期の「神鳳鈔」によれば、御厨は一三郷からなっていたという。大庭郷のほかに同書には鵠沼くぐいぬま郷・殿原とのばら郷・香川かがわ郷、「吾妻鏡」建久六年(一一九五)一一月一九日条には俣野郷、年未詳三月六日の後宇多法皇院宣案(県史二)には酒土さかと郷、嘉暦元年(一三二六)と推定される一一月七日の左大弁清閑寺資房奉書(同書)には菱沼ひしぬま郷、至徳元年(一三八四)後九月三日の関東公方足利氏満寄進状(県史三)にはつつみ郷が御厨内の郷としてみえる。

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百科事典マイペディア 「大庭御厨」の意味・わかりやすい解説

大庭御厨【おおばのみくりや】

相模国高座(たかくら)郡にあった伊勢神宮領。現神奈川県藤沢市・茅ヶ崎市一帯にあたる。大庭氏の祖鎌倉権五郎景正が浮浪人を使って開発,12世紀初頭に伊勢神宮御厨として相模国司の免判(めんぱん)を得,1141年宣旨により正式に御厨の承認を得た。神宮内宮(ないくう)を本家とし,口入(くにゅう)神主が預所(あずかりどころ),大庭氏一族が下司(げし)であったとみられる。御厨内には12(13とも)の郷があり,1144年の作田は95町。この年,源義朝勢と在庁官人らが1000余騎で御厨に乱入,新立荘園停止の宣旨が出たとして境界【ぼう】示(ぼうじ)を抜き取って御厨廃止を宣言,神宮供祭料米を押領(おうりょう)するなどの狼藉に及んでいる。1193年の大庭氏の失脚後,近隣有力武士の侵略が相次ぎ,15世紀中ごろには神宮の支配は実体を失った。

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改訂新版 世界大百科事典 「大庭御厨」の意味・わかりやすい解説

大庭御厨 (おおばのみくりや)

相模国高座郡大庭郷(神奈川県藤沢市内)にあった伊勢神宮の荘園で,12世紀初めに成立。同国住人鎌倉景政が浮浪人を使って開発し,1117年(永久5)に伊勢神宮に寄進した。大庭郷内の新しい郷の鵠沼郷,殿原郷,香川郷など13郷からなる約95町の田地で,中世には150町といわれる。景政の子孫が本御厨の御厨司,下司職を世襲,孫景忠の時より大庭氏(おおばうじ)を称した。1144年(天養1)若き源義朝は,留守所目代の源頼清と結託,三浦,中村などの自分の郎従と在庁官人を率いて鵠沼郷に乱入して,武力による横暴を働き,神人(じにん)を殺した。これに対し下司景宗は大神宮,太政官に訴えてこれを回避しようとしたが,その訴訟の最中にも侵略はくりかえされた。これは国司の免判によって成立した荘園が,その交代のたびごとに私領でなく公領だと主張されて収公の危険にさらされる不安定なものであった好例であり,《天養記》に詳しい。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大庭御厨」の意味・わかりやすい解説

大庭御厨
おおばのみくりや

相模(さがみ)国高座(たかくら)郡大庭郷(神奈川県藤沢市)に設定された伊勢(いせ)神宮の御厨(みくりや)。鎌倉権五郎景政(景正)(ごんのごろうかげまさ)が大庭郷内の山野を開発し、1117年(永久5)伊勢神宮に寄進して御厨とした。以後景政の子孫が下司職(げししき)を世襲し、大庭氏を称した。四至(しいし)は東は俣野(またの)川、南は海、西は神郷、北は大牧埼で、田地面積は12世紀中ごろで95町、のちには150町ほどになった。当初は国免地(こくめんち)であったため、絶えず国司による収公の危険にさらされたが、やがて勅免地(ちょくめんち)となって安定した。その直後の1145年(久安1)源義朝(よしとも)は御厨内の鵠沼(くげぬま)郷に乱入して押領を企てたが成功しなかった。この事件のようすは『天養記(てんようき)』によって知られる。

[山本博也]

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世界大百科事典(旧版)内の大庭御厨の言及

【大庭氏】より

…相模国大庭御厨(みくりや)を本領とする中世の武家。桓武平氏の流れをくむ鎌倉権五郎景政の開発・寄進によって成立した大庭御厨は,その子孫が代々現地支配にあたり,景政の孫景忠はとくに大庭を称し大庭氏の祖となる。…

※「大庭御厨」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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