永享の乱(読み)えいきょうのらん

精選版 日本国語大辞典 「永享の乱」の意味・読み・例文・類語

えいきょう【永享】 の 乱(らん)

永享一〇年(一四三八)、鎌倉公方足利持氏室町幕府にそむいた事件。幕府と不和であった持氏は、いさめる関東管領上杉憲実とも対立、この年上野に憲実を攻めた。この機に持氏討伐をきめた幕府は、今川氏武田氏、小笠原氏らに出兵させ、箱根で持氏を破った。持氏は鎌倉で謹慎したが幕府は許さず、翌年二月、持氏の居所永安寺を幕府軍で囲み、自殺させた。

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デジタル大辞泉 「永享の乱」の意味・読み・例文・類語

えいきょう‐の‐らん〔エイキヤウ‐〕【永享の乱】

永享10年(1438)鎌倉公方くぼう足利持氏あしかがもちうじが将軍足利義教よしのりに対して起こした反乱。義教は今川氏らに討伐を命じ、翌年、持氏は自殺した。

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改訂新版 世界大百科事典 「永享の乱」の意味・わかりやすい解説

永享の乱 (えいきょうのらん)

1438年(永享10)8月から翌年2月にかけて,鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実,憲実を援護する将軍義教との間の抗争に端を発した東国の内乱。幕府と鎌倉府の関係は両府の成立以来必ずしも良好といえるものではなかった。とくに上杉禅秀の乱以後は持氏が禅秀与党の征討と称して,反鎌倉,親幕府的な東国諸氏の討伐を敢行したことによって対立はますます深まっていった。乱後の持氏と憲実との関係も微妙なものであった。持氏は反鎌倉的な東国諸氏に強硬な態度で臨んだのであるが,憲実は融和的,親幕府的であった。このような相違は1437年持氏が将軍の分国である信濃国へ出兵して小笠原氏を攻めようとしたときに表面化した。このとき憲実は反対したが持氏が聞き入れないため,憲実は鎌倉から藤沢に退いた。持氏が憲実の忠告を入れて和解したが,両者の険悪な対立状況はなお続いた。翌38年6月,持氏は嫡子賢王丸(義久)の元服式を鶴岡八幡宮で行ったが,このとき前例となっていた将軍義教の偏諱(へんき)を受けなかった。将軍の偏諱を請うことを勧めていた憲実はこれを不満とし,また持氏が憲実を退治するとの風聞が立ったため憲実は8月14日上野(こうずけ)に退去した。憲実が鎌倉を去ると,持氏は一色直兼らに命じて憲実を追撃させ,みずからも武蔵国府中に出陣して憲実を討とうとした。

 このため憲実は幕府に援軍を求め,幕府も関東・奥羽の諸氏に持氏追討令を発し,駿河今川,甲斐武田,信濃小笠原氏らの近隣諸国守護が関東に攻め込んだ。憲実も越後・上野の兵を率いて10月19日武蔵国分倍河原(ぶばいがわら)に着陣し,持氏の降伏を待った。鎌倉を守っていた三浦時高は持氏に反し,憲実に応じて,11月1日に大倉御所を焼いた。そのため嫡子義久と足利満貞報国寺に逃れ,安王丸と春王丸は下野日光山に走った。ついに持氏も降伏を決意して鎌倉に帰り,金沢称名寺に入って剃髪し,近臣上杉憲直と一色直兼を切腹させた。憲実は持氏父子の助命を将軍義教にしきりに請うたが許されず,翌39年2月10日,上杉持朝,千葉胤直に命じて持氏の居所永安寺を攻めさせ,持氏は自害した。ときに持氏42歳,義久14歳であった。ここに足利基氏以来4代にわたる鎌倉公方の東国支配は終わり,結城合戦を経て,49年(宝徳1)持氏の末子足利成氏によって鎌倉府が再興されるが,上杉氏との対立を深めて享徳の乱となり,関東は戦国時代へと移行していった。

 永享の乱の直接的な原因については幕府と鎌倉府との対立があげられる。将軍と鎌倉公方との対立は両府成立当初から存在していた。ことに義教は将軍専制を確立するため,持氏を挑発し,持氏はそれに乗せられて滅亡したとするのが通説である。また鎌倉公方と山内上杉氏との対立も大きな要因であった。この対立の根底には守護領国内部の矛盾,より広くいえば鎌倉府支配体制下における東国社会内部の矛盾があったのである。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「永享の乱」の意味・わかりやすい解説

永享の乱
えいきょうのらん

1438年(永享10)から翌年にかけ、鎌倉公方(くぼう)足利持氏(あしかがもちうじ)が室町幕府に背いた事件。持氏は上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)の乱などで混乱した鎌倉府の支配体制を立て直そうとし、強圧的に東国の諸氏族に臨んだため、彼らとの対立が激化した。また将軍継嗣(けいし)問題の際、選ばれなかったことから公然と反幕府行動をとり始め、今川氏の家督相続問題、村上、小笠原(おがさわら)両氏の抗争などに介入、幕府と対立し、これを戒める関東管領(かんれい)上杉憲実(のりざね)とも円滑にいかなくなった。幕府はこのような持氏の動きに対し、篠川(ささがわ)御所足利満直(みつただ)への働きかけ、関東扶持衆(ふちしゅう)の設置などにより持氏を牽制(けんせい)していたが、持氏の憲実への追討軍派遣をみるに至り持氏の討伐を決め、今川、武田、小笠原などの諸氏に出陣を命じた。その結果持氏軍の多くの将兵は幕府側に移り、鎌倉を守っていた三浦時高(みうらときたか)も離反したため、持氏は憲実軍の長尾忠政に降参し、鎌倉の永安寺に幽閉され、39年2月に自殺させられた。これにより乱はいちおう終息し、鎌倉公方による実質的な関東支配は終わった。しかしこの乱は、こののち長く東国社会に影響を与え、結城(ゆうき)合戦、足利成氏(しげうじ)の公方就任、それに伴う享徳(きょうとく)の大乱、そして古河(こが)公方の成立など、東国に不安定な政情を現出させる要因となった。

[小要 博]

『渡辺世祐著『関東中心足利時代之研究』(1971・新人物往来社)』『神奈川県県民部県史編集室編『神奈川県史 通史編1』(1981・財団法人神奈川県弘済会)』

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百科事典マイペディア 「永享の乱」の意味・わかりやすい解説

永享の乱【えいきょうのらん】

1438年(永享10年)鎌倉公方足利持氏が室町幕府にそむいた事件。持氏が将軍足利義持の後嗣になれなかったのを不満として将軍足利義教に反抗,これをいさめた関東管領上杉憲実とも不和となった。争いは東国の内乱に発展したが,義教は今川・武田・小笠原らの兵を動員して持氏軍を破り,持氏は剃髪(ていはつ)して謹慎したが許されず,1439年自殺した。
→関連項目足利成氏足利荘稲村御所関東管領古河公方平井城結城合戦

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「永享の乱」の意味・わかりやすい解説

永享の乱
えいきょうのらん

永享 10 (1438) 年関東公方足利持氏が室町幕府にそむいた事件。正長1 (28) 年,実子のなかった4代将軍足利義持が後継者を定めず没したあと,将軍への野望をいだいていた持氏は,次期将軍の地位を期待していたが,同年管領畠山満家らが引いたくじによって天台座主青蓮院義円 (義教) が将軍に決定した。そのため持氏は次第に反幕府的行動をとるようになった。幕府は以前から関東の佐竹氏,宇都宮氏など諸豪族に保護を与え,関東公方を牽制していた。さらに関東管領上杉憲実もひそかに幕府に通じていたので,永享 10年8月,憲実が持氏と不和となり領国上野に引上げたのを機に義教は今川氏,武田氏,小笠原氏らに持氏追討を命じた。持氏は幕府の東征軍と憲実軍に迫られ,その年9月,箱根足柄に敗れ鎌倉に退いたが,留守役三浦時高にも裏切られ,金沢称名寺に出家したが,義教の怒りはとけず,翌年2月,居所鎌倉永安寺を憲実軍に囲まれ自害した。この乱は持氏の遺子を奉じた結城合戦へと発展していく。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「永享の乱」の解説

永享の乱
えいきょうのらん

1438・39年(永享10・11)に鎌倉公方足利持氏がおこした内乱。以前から室町幕府と鎌倉府の対立が続いていたが,上杉禅秀の乱(1416・17)後,持氏が討伐した禅秀側の残党には時の将軍足利義持の扶持衆が多く含まれていたため,義持は持氏討伐軍を派遣。両者は和睦したものの,持氏は幕府に対して反抗的な態度をとりつづけた。38年,嫡子賢王丸の元服に際して将軍の偏諱(へんき)をうける慣習を破って義久と命名し,それを諫めた関東管領上杉憲実を討とうとしたため,憲実は8月に上野国に退き,持氏は武蔵国府中に出陣。将軍義教が今川範忠・武田信重・小笠原政康を持氏追討軍として関東に派遣すると,鎌倉の三浦時高は持氏から離反して大倉御所を焼き,憲実も武蔵国分倍河原(ぶばいがわら)(現,東京都府中市)に陣をしいた。持氏は降伏して11月に武蔵国金沢の称名寺で出家,鎌倉の永安(ようあん)寺に移った。翌年2月,義教の命令で憲実が同寺を攻め持氏を自害させた。この結果4代にわたる鎌倉公方の東国支配は幕をおろした。

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旺文社日本史事典 三訂版 「永享の乱」の解説

永享の乱
えいきょうのらん

1438(永享10)年,鎌倉公方足利持氏が将軍足利義教と対立して起こした事件(〜'39)
持氏は将軍足利義持の死後,将軍職を望んだが,義教 (よしのり) が還俗 (げんぞく) して6代将軍になると,幕府と対立,これをいさめる関東管領上杉憲実 (のりざね) とも不和となり争いがおこった。幕府はこれを機に持氏征討を決し,今川・武田・小笠原氏らの大軍を派遣したので,持氏は自殺(1439)。

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世界大百科事典(旧版)内の永享の乱の言及

【嘉吉の乱】より

…義教専制化の基礎は直轄軍と直属官僚にあったといえよう。義教は39年(永享11)長年の対抗者であった鎌倉公方持氏を滅ぼし(永享の乱),遺子安王・春王も両者を擁した結城氏朝とともに滅ぼした(結城合戦)。守護大名に対しては家督に介入して圧力を加え,若狭・三河・丹後守護一色義貫や伊勢守護土岐持頼などはさしたる理由もなく追討された。…

【鎌倉公方】より

…これ以前から憲実から諸種連絡を受けていた幕府は,この機をとらえて諸将に持氏追討を命じた。永享の乱の勃発であった。その後,幕府方と持氏方との合戦が箱根や小田原などでくり返されたが,持氏方は各地で敗れ,持氏に背くものが相ついだ。…

※「永享の乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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