甲斐国分尼寺跡(読み)かいこくぶんにじあと

日本歴史地名大系 「甲斐国分尼寺跡」の解説

甲斐国分尼寺跡
かいこくぶんにじあと

[現在地名]一宮町東原

かね川右岸の扇状地扇央部にある奈良・平安時代の寺院跡。国道二〇号より町道金田かねた塩田しおだ線を南に入った果樹園の中に広がる。長徳ちようとく寺裏の金堂講堂跡の両基壇を含む約三〇〇〇平方メートルが国指定史跡南方約五〇〇メートルの国分こくぶには国分寺跡がある。久しい間、東山梨郡春日居かすがい町の寺本てらもと廃寺尼寺に比定され、当地は平安中期の陰陽師安倍晴明の宅跡とされてきた(「甲斐国志」など)遺構は指定地の南北基壇のうち南側が金堂跡で、礎石が一八個現存する。講堂は金堂より一段低く、一二個の礎石が残る。いずれも昭和八年から同一〇年の新道開通により基壇西側(基壇全体の約九分の一)が削平され、礎石も西側柱列が欠失しているが、五間四面の建物が復原できる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「甲斐国分尼寺跡」の解説

かいこくぶんにじあと【甲斐国分尼寺跡】


山梨県笛吹市一宮町の甲斐国分寺跡から北約500m、高雲山長徳寺の裏にある寺院跡。奈良時代に聖武天皇の詔勅により、738~42年(天平10~14)に甲斐国分寺とあわせて創建された尼寺の跡で、1辺約30mで方形の土で築いた壇のある地域が南北に2ヵ所ある。現在、北部には11個の礎石が見られ、南部は北部より1段高く、18個の礎石が現存する。この土壇地域の外側に東西約109m、南北約181mの土塁が部分的に残っており、これが尼寺の寺域を示すものである。道路新設の際にこの地域の西端部とその礎石が撤去され、かつての姿とは異なるが、現状からは南北ともに桁行5間、梁間4間の堂宇で、南部は金堂の跡、北部は講堂の跡と推定される。「花寺」の墨書のある須恵器(すえき)が発掘されているが、同様のものは平城京跡(法華寺(ほっけじ))、上総(かずさ)国分尼寺跡などでも出土しており、「花寺」は国分尼寺の法号「法華滅罪寺」の略称と考えられている。地域内からは、国分寺跡と同種の瓦も出土している。1949年(昭和24)に国の史跡に指定され、2001年(平成13)に追加指定があった。JR中央本線石和(いさわ)温泉駅から車で約15分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報