理藩院(読み)リハンイン(英語表記)Lǐ fān yuàn

デジタル大辞泉 「理藩院」の意味・読み・例文・類語

りはん‐いん〔‐ヰン〕【理藩院】

中国朝の中央官庁の一。モンゴルチベット青海新疆しんきょうなどの藩部に関する行政事務を管理した。ロシアとの外交事務もここで行われた。

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精選版 日本国語大辞典 「理藩院」の意味・読み・例文・類語

りはん‐いん ‥ヰン【理藩院】

〘名〙 中国の清代に蒙古・青海・チベット・新疆の藩部を統治するため設けられた中央官庁。清末に理藩部と改称された。

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改訂新版 世界大百科事典 「理藩院」の意味・わかりやすい解説

理藩院 (りはんいん)
Lǐ fān yuàn

中国,清代にモンゴル,チベット,新疆の少数民族の管理のために設けられた中央官庁。清の太宗は内モンゴルを平定すると,その統治のため1636年(崇禎9)蒙古衙門を創設し,38年これを理藩院と改名した。17世紀末以来清朝の対外発展に伴って理藩院の管轄範囲もモンゴルからチベット,新疆にまで拡大された。理藩院の主な職務は少数民族王公に関するいっさいの事務(朝貢封爵刑罰など),ラマ教の管理である。
藩部
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「理藩院」の意味・わかりやすい解説

理藩院
りはんいん

中国、清(しん)朝の藩部(内・外蒙古(もうこ)、新疆(しんきょう)、チベット、青海地方)を統括する中央官庁で、六部(りくぶ)と並ぶ地位職掌をもつ。入関以前に蒙古諸部族統治のために蒙古衙門(がもん)が設けられたが、1638年にこれを改設して理藩院とした。その後、一時は礼部の管轄下に置かれたが、1661年にふたたび独立官庁となり、1906年に理藩部と改称された。長官の尚書、補佐役の侍郎の下に、清朝の藩部統治の原則である直轄領に編入することなく各部族の自治にゆだねたため、各藩部ごとにその統治形態は異なる。中央からは将軍、大臣を派遣して自治機関の監督、封爵、朝貢、貿易裁判などの事務を行わせた。また、ロシアとの外交事務もここで行われた。

[細谷良夫]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「理藩院」の意味・わかりやすい解説

理藩院
りはんいん
Li-fan-yuan; Li-fan-yüan

中国,清代に設置された中央官庁の一つ。藩部 (内・外モンゴル,新疆,チベット,青海地方) の管轄事務を担当する機関。第2代太宗が内モンゴルを平定したのち設置した蒙古衙門を,崇徳3 (1638,明の崇禎 11) 年理藩院と改称したことに始る。のち乾隆時代までに,清朝の周辺部に対する支配の拡大とともにその統轄範囲は拡大された。長官は,初め承政のち尚書と呼ばれ,満州人が任命された。光緒 32 (1906) 年理藩部と改称された。統治方針は原則的に自治を認め,中央から将軍,大臣などを派遣して監督させた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「理藩院」の解説

理藩院(りはんいん)

清代に設置された藩部の管理事務機関。太宗(ホンタイジ)の内モンゴル平定時に創設。のち藩部の増加により管轄範囲が拡大した。長官を尚書といい満洲人があてられた。清末に理藩部と改称。

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旺文社世界史事典 三訂版 「理藩院」の解説

理藩院
りはんいん

清代に藩部の行政を管理した中央官庁
内・外モンゴル,青海,チベット,新疆 (しんきよう) (シンチヤン) 地方は藩部と称され,理藩院はその朝貢・封爵・俸禄・会盟・駅伝・貿易互市・裁判などの事務を司った。

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百科事典マイペディア 「理藩院」の意味・わかりやすい解説

理藩院【りはんいん】

藩部

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