牧ノ原(読み)マキノハラ

デジタル大辞泉 「牧ノ原」の意味・読み・例文・類語

まき‐の‐はら【牧ノ原】

静岡県中南部、大井川下流西岸の台地。明治初期の士族入植以来、茶の産地

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精選版 日本国語大辞典 「牧ノ原」の意味・読み・例文・類語

まき‐の‐はら【牧ノ原】

静岡県中部、大井川下流右岸の洪積台地。平坦部は大茶園地帯をなしている。布引腹。

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改訂新版 世界大百科事典 「牧ノ原」の意味・わかりやすい解説

牧ノ原 (まきのはら)

静岡県中部,大井川下流平野と菊川低地との間に広がる洪積台地。一帯は古代の質侶牧(しどろのまき)の地と考えられている。第三紀層上を古大井川の堆積物である牧ノ原礫層のおおう隆起扇状地で,周辺は浸食谷に刻まれ急崖や丘陵性の地形となる。平たんな台地面は北端島田市の旧金谷町安田原から南端御前崎まで南北約25kmにわたり,高度も約300mから50mまで低下する。台地面は3段に区分されるが中位面が広く,その平面形は樹枝状にのび,長者原,谷口原,赤土原など局地的名称も多い。南端の御前崎台地は海成礫層ののる隆起海食台であり,高尾山や高根山のある坂部原は高位面の台地である。台地は水利に恵まれず,入会採草地の原野であったが,1869年(明治2)士族授産の目的で旧幕臣の中条景昭が新番組を率いて入植し,茶園の開墾を始め,のちに大井川川越人足も丸尾文六に率いられて入植した。77年には茶園は500町歩に達し,集団茶園形成の基礎となった。牧ノ原地区の茶園は現在5000haに及び,静岡県下の茶生産の約40%を占める。茶園には防霜ファンが林立し,製茶工場や農林水産省茶業試験場もある。農業用水不足の解決のため,大井川上流に建設中の長島ダムに水源をもつ牧ノ原用水が計画されている。旧金谷町の台地端にある牧ノ原公園は展望に恵まれ,茶祖栄西禅師像が立つ。また公園北方の諏訪原城(史)は牧野原城ともよばれ,1575年(天正3)徳川家康武田勝頼の攻防があった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「牧ノ原」の意味・わかりやすい解説

牧ノ原
まきのはら

静岡県中部、大井川下流と菊川の間に広がる洪積台地。かつての大井川の隆起扇状地。台地面の高さは北の島田市の安田原(あんだばら)で標高約270メートル、南へ緩やかに低まり、南端の御前崎(おまえざき)の隆起海食台では標高50メートルになる。台地面は周辺からの侵食谷によって開析され、樹枝状の形態をもち、岡田原、権現原、長者原、朝比奈原(あさひなばら)など局地的名前も多い。表面は河成の牧ノ原礫(れき)層が堆積(たいせき)しているが、南端では海成の礫層となる。現在は大茶園として知られるが、かつては原野が広がり、馬牧や牧野の存在が地名の起源ともいわれる。茶園の開拓は1869年(明治2)徳川家旧臣の士族や大井川川越人夫の入植によって始まり、近在の農民の開墾も加わり産地化が進んだ。現在約5000ヘクタールの茶園が広がり、農研機構野菜茶業研究所と静岡県農林技術研究所茶業研究センターが栽培・製茶技術を進めている。2002年(平成14)大井川上流に長島ダムが竣工、大井川の洪水調節とともに、台地の農業用水として利用されるようになった。

[北川光雄]

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百科事典マイペディア 「牧ノ原」の意味・わかりやすい解説

牧ノ原【まきのはら】

静岡県南部,大井川下流右岸の洪積台地。旧大井川の扇状地または隆起した三角州とされ,樹枝状の谷により開析されている。標高70〜280m。明治初年の士族による開墾以後開発が進み,日本最大の茶園となった。浸食谷の谷底は水田。
→関連項目小笠[町]金谷[町]菊川[町]相良[町]静岡[県]島田[市]榛原[町]

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