静岡(読み)しずおか

精選版 日本国語大辞典 「静岡」の意味・読み・例文・類語

しずおか しづをか【静岡】

[一] 静岡県中部の地名。県庁所在地。安倍川扇状地を占める。古くは駿河国の国府が置かれ、南北朝時代以降は今川氏の城下町となり、駿府または府中と呼ばれた。江戸初期、徳川家康が駿府城に隠居し、東海道五十三次の宿駅(府中宿)として繁栄。登呂遺跡・駿府城址・浅間神社久能山東照宮など名所旧跡が多い。明治二年(一八六九)現名に改称。同二二年(一八八九)市制。平成一五年(二〇〇三)清水市と合併、同一七年政令指定都市。

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デジタル大辞泉 「静岡」の意味・読み・例文・類語

しずおか〔しづをか〕【静岡】

中部地方南東部の県。太平洋に面する。駿河遠江とおとうみ伊豆の3国を占める。人口376.5万(2010)。
静岡県中央部の市。県庁所在地。古代、駿河の国府が置かれ府中または駿府すんぷとよばれた。徳川家康隠棲の地で、久能山に家康を祭る東照宮がある。名称は、賤機しずはたに由来。茶・ミカンの集散地。木工業が盛ん。登呂とろ遺跡がある。平成15年(2003)清水市と合併。平成17年(2005)に政令指定都市となり葵区駿河区清水区を設置。平成18年(2006)に蒲原町を、平成20年(2008)に由比町を清水区に編入した。人口71.6万(2010)。
[補説]静岡市の3区
葵区清水区駿河区

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改訂新版 世界大百科事典 「静岡」の意味・わかりやすい解説

静岡[県] (しずおか)

基本情報
面積=7780.42km2(全国13位) 
人口(2010)=376万5007人(全国10位) 
人口密度(2010)=483.9人/km2(全国13位) 
市町村(2011.10)=23市12町0村 
県庁所在地=静岡市(人口=71万6197人) 
県花=ツツジ 
県木モクセイ 
県鳥=サンコウチョウ

中部地方南東部の太平洋岸に位置する県。東は神奈川,北東は山梨,北西は長野,西は愛知の各県に接し,東西約155km,南北118km。

県域はかつての遠江(とおとうみ),駿河,伊豆3国のほぼ全域にあたる。江戸時代は広大な天領を駿府(すんぷ)(駿河),中泉(遠江),韮山(にらやま)(伊豆)の代官所が支配したほか,旗本領,沼津藩浜松藩をはじめ中小の譜代諸藩,寺社領が複雑に入り組んでいた。1868年(明治1)徳川宗家の移封によって,駿河全域と遠江の大部分(一部に同年堀江藩が立藩),および東三河からなる府中藩(翌年静岡藩と改称)が成立,そのため駿河の沼津,小島(おじま),田中,遠江の相良(さがら),掛川,横須賀,浜松諸藩は,安房・上総両国に移された。71年廃藩置県をへて,伊豆を管轄していた韮山県(1868成立)は相模の足柄県に編入,静岡県と堀江県は統合・分離して静岡県(駿河),浜松県(遠江)となり,東三河は額田県に編入された。76年足柄県の廃県に伴い,静岡県は伊豆を併合,さらに浜松県も併せて現在に至る。なお78年伊豆七島を東京府へ移管した。

先縄文時代の遺跡としては休場(やすみば)遺跡(沼津市)や広野遺跡(磐田市)などがある。前者では炉址2とともに多数の細石器が発見されたが,炭素14法により14300±700B.P.の年代が与えられている。縄文時代では,木島貝塚(富士市)が前期初頭,木島式の,また柏窪(かしわくぼ)遺跡(駿東郡長泉町)は前期末~中期初頭柏窪式の,いずれも標式遺跡である。大石寺の寺地にある千居(せんご)遺跡(富士宮市)は中期の,また大塚遺跡(伊豆市)は後期の,いずれも大規模な配石遺構をもつ遺跡である。後・晩期の遺跡も少なくない。西貝塚(磐田市)は後期を中心とする貝塚。蜆塚(しじみづか)貝塚(浜松市中区)や天王山(てんのうざん)遺跡(静岡市清水区)は,東海地方の後・晩期の様相を知るうえで重要な大遺跡である。弥生時代では何といっても登呂遺跡(静岡市駿河区)が著名であるが,このほかにも中期の丸子(まりこ)遺跡(静岡市駿河区),有東(うとう)遺跡(静岡市駿河区),中~後期の矢崎遺跡(駿東郡清水町),後期から古墳時代にわたる山木遺跡(伊豆の国市)など,いずれも東海地方の弥生文化の究明に重要な遺跡である。とりわけ山木遺跡は水田址とともに多量の木器の出土で知られる。伊場(いば)遺跡(浜松市中区)は縄文時代から鎌倉時代にわたる大遺跡だが,弥生・古墳時代および律令制の時期が中心である。溝状遺構など各種遺構,墨書土器,多数の木簡など貴重な遺物が発見されているが,東海道本線高架関連事業のため史跡指定解除をめぐっていわゆる〈伊場訴訟〉が起こされたことでも知られる。古墳時代では,遠江地域の古式古墳として重要な赤門上(あかもんうえ)古墳(浜松市浜北区)や松林山(しようりんざん)古墳(磐田市),静岡市清水区周辺で最古段階,おそらく4世紀末の三池平(みいけだいら)古墳,それに6世紀中葉の東海地方の代表的古墳である賤機山(しずはたやま)古墳(静岡市葵区)などがある。後期の群集墳も多く,5世紀後半から7世紀代の円墳200基以上からなる瀬戸古墳群(藤枝市),埴輪窯を伴うことで注目される5世紀後半の京見塚(きようみづか)古墳群(磐田市)などがある。また横穴墓も多い。北江間(きたえま)(大北)横穴群(伊豆の国市)では25個もの火葬骨用石櫃(いしびつ)が出土するなど,土葬から火葬への移行期の様子がうかがわれたほか,石櫃の一つに〈若舎人〉の銘がみられた。このほか伊庄谷(いしようだに)横穴墓群(静岡市駿河区),柏谷(かしや)横穴墓群(田方郡函南町),大師山横穴墓群(伊豆の国市)などがある。歴史時代では,創建当初の駿河国分寺と推定される片山廃寺(静岡市駿河区)や,戦後の国分寺研究の出発点となった遠江国分寺址(磐田市)などのほか,〈少毅殿〉の墨書土器や最古の具注暦木簡などを出土した城山(しろやま)遺跡(浜松市南区)など,奈良時代の郡衙址などもかなり明らかになりつつある。
伊豆国 →駿河国 →遠江国
執筆者:

太平洋に面する静岡県は後ろに赤石山脈や富士山を控え,平地が海岸沿いに帯状に分布していることから南北方向よりも東西方向の結びつきが強く,関東,関西あるいは中京との経済・文化圏の接触地帯にあたる。静岡県が回廊的性格をもつようになったのは,鎌倉時代に東海道が京と鎌倉を結ぶ主要道となって以来のことで,江戸時代には東海道の53の宿駅のうち22が県内に立地していたこともあって人と物資の往来が多く,その性格はいっそう強まった。1889年の東海道本線の全通により回廊的性格は確定的なものになったが,1964年に東海道新幹線,69年に東名高速道路が開通したため,今日においては東西両圏の影響はより直接的になっており,東部は関東,西部は関西・中京の影響を経済・文化両面で強く受けている。また行政的にも,かつての静岡県は通産・農水両省においては東京の,大蔵・運輸・建設各省では名古屋の管轄地域に入っており,この面でも回廊的性格を示している。

県の地形,地質はほぼ中央部を南北に走る糸魚川-静岡構造線と,富士川との間にある庵原(いはら)山地によって東西に二分される。東半部はフォッサマグナの大地溝帯の一部にあたり,火山や温泉,地震の多い地殻運動の活発な地域である。富士山(3776m),愛鷹(あしたか)山(1187m),箱根山などの火山地域と伊豆半島によって構成され,火山のほかは1500m以上の山地はごくわずかである。西半部は中央構造線が北西端近くを通るため,一部分が西南日本内帯に属するが,大部分は外帯に属し,古期岩層がほぼ南北方向の帯状に配列する標高2500~3000mの赤石山脈が広い面積を占める。河川は天竜川,大井川,安倍川など西半部に豊かな水量をもつ急流が多く,縦谷をなして南流し,海岸沿いに遠州平野大井川平野静岡平野など厚い砂礫(されき)層からなる扇状地性の平野を発達させる。東半部では富士川が大きいが,県内での流長は18kmにすぎず,下流の岳南平野,狩野川下流域の北伊豆平野も西半部の平野に比べると規模が小さい。西半部には平野に隣接して三方原,磐田原,牧ノ原などの洪積台地が多いのも特徴的である。標高差の大きい変化に富む地形の影響で気候の差も著しく,伊豆半島および駿河湾沿岸部は温暖で年平均16℃以上,年降水量2000mm内外であるが,山間部では高度を増すほど夏季冷涼,冬季の寒さが厳しくなり,年降水量は3000mmに達するところもある。山間部では豊富な水資源を背景に,1950年代には電源開発が行われ,佐久間ダム(天竜川),井川ダム(大井川)などの多くのダムが建設された。森林面積は県総面積の約2/3にあたり,とくに大井,天竜,安倍の各河川流域は杉,ヒノキの人工林のほか,モミ,ツガなどの天然林の蓄積も多く,下流の島田・天竜両市は製材工場などの集積した木材の集散地になっている。

 県内の産業別就業者の割合は,第1次産業7%,第2次産業41%,第3次産業52%(1995)で,全国平均に近い。農業は温暖な気候の沿岸部を中心に先進的な農業が営まれ,農業粗生産額は全国第13位の3202億円(1994)に達する。米のほか,茶,ミカン,温室メロン,野菜,花卉の栽培や畜産などが行われ,このうち茶は荒茶生産量で全国の52%,温室メロンは42%を占めて全国1位,ミカンは12%を占めて同3位の生産額をあげている。茶は牧ノ原のほか,安倍川,大井川などの河谷で栽培されている。このうち牧ノ原は明治初期に開拓され,現在は約6000haに及ぶ大茶園が分布する。大部分の生葉は地元で荒茶に加工され,製茶問屋の集中する静岡市駿河区・葵区に運ばれる。ミカンは東部の伊豆半島では沼津市周辺,中部では静岡市の駿河区・葵区と清水区周辺の丘陵部,西部では浜名湖周辺で多く栽培される。また,三保(清水区)から御前崎にかけての海岸沿い,および遠州灘沿岸では施設園芸が盛んで,久能山での石垣イチゴ袋井市と浜松市での温室メロンがその代表である。花卉は伊豆半島西部と浜松市周辺,酪農・畜産は岳南地域が盛んで,とくに富士山西麓の朝霧高原は戦後開拓された大規模酪農地域として知られる。

 変化に富む海岸線,沖合を流れる黒潮の影響を受けて全国有数の水産県となっている。沖合漁業は駿河湾入口の石花海(せのうみ)でのサバが中心であり,遠洋漁業はマグロはえなわとカツオ一本釣りが大部分で清水・焼津(やいづ)両漁港に水揚げされる。内水面での養殖漁業の生産額は全国第3位であり,全国の16%(1994)を占める浜名湖および吉田町などのウナギや,富士山の湧水を利用した富士宮のニジマスなどがある。

県内には,中部に天然の良港清水港や東部に人工港の田子ノ浦港などがあるが,全体としては素材型重化学工業の比率が低いため,工業は組立てや軽工業など内陸型の性格を示しているところに特色がある。県の製造品出荷額は16兆6295億円(1995)で全国第5位を占める。業種別にはオートバイ,自動車の輸送用機械(23%),食料品(7%),電機(18%),化学(10%),紙・パルプ(7%)が多い。藩政末期から明治初期にかけては西部に浜松の綿織物,中部に静岡の漆器,東部に富士・庵原両郡の和紙など地元で産する原料に依存した家内工業があった。明治中ごろには綿織物は機械制工業に変わり,漆器から家具,下駄,雛具(ひなぐ)などが派生し,富士地区には富士川の水と結びついて外来資本の洋紙工場が進出した。その後,綿織物,家具,製紙とも全国的産地に発展し,これに関連して繊維機械・楽器(浜松)なども興った。清水市には昭和初期に製材,缶詰,第2次大戦中に造船,石油精製が進出したほか,沼津市,浜松市などには一般機械工業が発達した。戦後の高度経済成長期には機械や化学が伸び,重化学工業化が進行した。現在,西部では浜松市を中心にオルガン,ピアノは全国の9割,オートバイは3~4割を占める。周辺の磐田,袋井,掛川,湖西の各市においては楽器,オートバイ,自動車などの工場が浜松から移転し近年の伸びが大きい。中部では家具,仏壇など木漆関連の静岡市のうちの旧静岡市と,缶詰などの食料品,石油精製,造船などの静岡市の旧清水市からなる静清(せいせい)地区が主で,藤枝,焼津などの大井川地区には従来の紙・パルプ,木材に加え化学,食料品などの工場が立地している。東部は1963年東駿河湾工業整備特別地域に指定され,一般機械,電機,合繊などの沼津・三島地区,全国一の製紙をはじめ,自動車部品,化学などの富士地区に加え,御殿場・裾野両市には自動車およびその関連工場が進出し,新しい工業地区を形成した。

静岡県は自然条件および人文条件の違いから,富士川と大井川および天竜川の分水界を境に東部,中部,西部に分けられる。また旧国域に沿ってほぼ狩野川以東を伊豆地域,狩野川以西,大井川までを駿河地域,大井川以西を遠江地域に区分する場合もある。地域別の人口(1995)は東部の123万,中部の124万,西部の127万でほぼ等しく,農業粗生産額(1995)の52%が西部に集中し,中部(28%),東部(20%)を大きく上回る。工業は製造品出荷額(1995)が東部31%,中部27%,西部42%で,西部が優位である。商業は年間商品販売額(卸売・小売業,1994)において中部が44%と多く,次いで西部(31%),東部(26%)の順である。

(1)東部 伊豆半島および岳南(富士山南斜面)の各地区からなる。この地域の大部分は富士箱根伊豆国立公園に属し,東海道新幹線,東海道本線,東名高速道路など交通の便のよさもあって,全国有数の観光地になっている。このうち年間5000万人を上回る県外観光客の訪れる伊豆半島は交通機関の発達とともに関東との結びつきが強まり,1925年の国鉄熱海線(現,東海道本線の一部),34年の丹那トンネル開通に伴う東海道本線の路線変更,38年の伊東線の開通は温泉都市の熱海,伊東を東京の奥座敷にした。また61年の伊東~下田間の伊豆急行線の開通は,中央資本による下田を中心とした南伊豆地区の観光開発を促進させた。小売商圏は沼津市の広域商圏に包含されるが,その中に御殿場市,三島市などの小商圏があり,大型店の進出により富士市,下田市などの商圏は独立の傾向にある。中心都市の沼津市は人口21万(1995)で中部の静岡市(47万人)や浜松市(56万人)と比べ少ないが,周辺の清水町,函南(かんなみ)町,裾野市などの人口増加が著しい。

(2)中部 富士川から大井川,天竜川の分水界までの地域で,東海道本線に沿って静岡,焼津,藤枝,島田の各市が連なり都市化が著しい。この地域の中心都市で県庁所在地でもある静岡市の旧静岡市は県の政治・経済・文化の中心地をなし,大手企業の支店,営業所などの集中が著しい。県の卸売業販売額(1994)の約1/3を占める商業都市であるが,木漆関連工業や製茶,プラモデルなどの地場産業も盛んである。東隣の工業の盛んな旧清水市とは市街地の拡大により連接化している。一方,大井川平野にある焼津・藤枝・島田3市と大井川町(現,焼津市)では人口増加が著しいが,家具工業を中心に静岡からの移転工場も多い。

(3)西部 遠州平野を含むこの地域は農業と工業がともに発達した地域である。中心都市の浜松市は県庁所在地以外の地方都市の中で,人口50万近くになった全国でも珍しい都市で(平成の大合併により2007年には79万人弱),織物,楽器,自動車・オートバイが三大工業である。広大な遠州平野は県内一の穀倉地帯であるとともに,袋井・浜松両市を中心とした施設園芸,浜松市が中心の花卉,浜名湖北岸のミカン栽培などの盛んな先進的な農業地域である。浜松市周辺の磐田・湖西両市などは近年住宅地化が著しい。西部の小売商圏は浜松商圏の吸引力が大きく,掛川,袋井,浜北,天竜,磐田の商圏は小規模である。
執筆者:


静岡[市] (しずおか)

静岡県中部にある県庁所在都市。2003年4月旧静岡市と清水(しみず)市が合体し,さらに06年3月蒲原(かんばら)町を編入して成立した。蒲原町は飛び地合併となったが,08年11月に間にあった由比(ゆい)町が静岡市へ編入したため,飛び地は解消された。なお05年4月静岡市は政令指定都市に移行し,葵,駿河,清水の3区が置かれている。人口71万6197(2010)。

静岡市東端の旧町。旧庵原(いはら)郡所属。人口1万3454(2000)。富士川河口西岸に位置し,南は駿河湾に臨む。古くから東海道の宿駅として繁栄した交通の要地で,現在もJR東海道本線,国道1号線が通じる。1939年アルミニウムの電解工場が立地して以来,関連する金属,化学工場が進出し,工場地帯を形成している。北部丘陵地帯のミカンや駿河湾のサクラエビ,シラスなどが特産物で,缶詰や削り節加工など食品加工業も発達している。ハイキングコースとして知られる大丸山,室町時代に蒲原氏が拠った蒲原城跡などがある。
執筆者:

駿河国の宿場町。地名の初出は864年(貞観6)で,蒲原駅を富士川の東に移したという《日本三代実録》の記載である。東遷前の位置は旧蒲原町,富士市岩本,同市本市場などに比定される。鎌倉時代以降は富士川と由比の間に位置する蒲原郷内にあり,蒲原氏の支配下にあった。富士川をひかえた交通の要衝で,武田氏は蒲原衆に伝馬屋敷36間の諸役を免じて保護した。1601年(慶長6)東海道の宿駅に指定された。当時の宿中心部は蒲原町古屋敷から堀川,諏訪町辺といわれる。99年(元禄12)高潮の被害をうけ本町辺に移り,駿河湾に沿って海食崖下に町並みを形成した。《宿村大概帳》によれば町並み14町余,人別2480,家数509,本陣1,脇本陣3,旅籠屋42であった。富士川舟運の発達にともない甲州・信州からの下り荷の廻米,甲州・信州向けの塩の中継地として繁栄し,廻船業者も多かった。
執筆者:

静岡市西部の旧市で,県庁所在都市。1889年市制。人口46万9695(2000)。中心市街地は静岡平野の主体をなす安倍川東岸の扇状地に位置し,市域には山梨・長野両県境付近の安倍川,大井川の上流域や藁科(わらしな)川の流域も含まれ,かつての市では福島県いわき市に次いで全国第2位の広さ(面積1146km2)であった。古代には駿河国府が置かれ,国分寺も建立された。鎌倉時代以降,東海道の宿駅,府中宿として発展し,室町時代中ごろから駿府(すんぷ)の名も用いられるようになった。南北朝時代には今川氏の居館地となって城下町が整備され,一時武田氏の支配下に置かれたが,1607年(慶長12)徳川家康が隠居城として駿府城を築き,16年(元和2)まで大御所政治が行われ,江戸と並ぶ日本政治の中心地となった。1869年(明治2)賤機(しずはた)山(別名,賤ヶ丘)にちなんで静岡と改称した。89年に東海道本線が全通し,その後周辺の村を編入しながら商業,木工関連工業を中心に発展してきた。1964年東海道新幹線静岡駅が開業。東名高速道路のインターチェンジがある。産業別就業者の割合では第1次産業が3.9%,第2次産業が29.4%,第3次産業が66.4%(1995)を占める。農業では年平均気温16℃と温暖な気候を生かした茶,ミカン,野菜の栽培が中心で,江戸期から生産されていた茶は明治以降輸出品となったこともあって発展し,安倍川,藁科川筋の本山(ほんやま)茶は銘茶として知られる。また市内には県内各地から集められた荒茶の再製工場が多い。ミカンは有度(うど)丘陵,賤機山など中部山沿いで栽培され,果物,野菜は海岸部を中心に施設園芸が伸びており,旧清水市に至る有度丘陵南斜面の久能地区の石垣イチゴは観光農業としても有名。水産業は遠洋漁業の根拠地,用宗(もちむね)港が中心をなす。工業では国道1号線沿いに紡績,電機などの大工場が集まるほかは,伝統的な木漆製品を製造する家内工場が多く,家具,雛具,下駄,サンダル,プラモデルは全国一の生産額を示す。市街地は駿府城跡(駿府公園)を中心に整然とした町割りをなしており,中心商店街は静岡駅前から北西にのびている。市街地北方の賤機山南端には浅間(せんげん)神社,南方には登呂遺跡(特史),久能山(史)には徳川家康をまつる東照宮,その北側には日本平(にほんだいら)(名)など名所,旧跡が多い。

静岡市中部の旧市で,駿河湾に臨む。1924年市制。人口23万6818(2000)。市域は東部の興津(おきつ)から南西部の日本平(有渡山(うどさん))に及び,西は旧静岡市に接する。北部は興津川上流の山地で,南に三保ノ松原で知られる分岐砂礫嘴(されきし)の三保半島があり,良港清水港を囲む。江尻興津は東海道の宿場町として古くから栄え,清水湊は江戸時代に幕府から種々の特権を与えられて発展,諸国の廻船の出入りが盛んで,多くの廻船問屋が活動した。1899年開港場となり,全国一の茶の輸出港に発展した。明治末期以降,港湾拡張とともに工業港の性格が強まり,大正期に港湾に隣接して食用油,製材などの工場が進出,昭和初期にミカン,マグロの缶詰工場,第2次世界大戦中にはアルミナ,石油精製,造船,電機などが進出した。1952年特定重要港湾に指定され,近年にコンテナ専用埠頭もできた。輸出はオートバイ,自動車が約半数を占め,輸入は原油,木材,魚貝類の順である。工業は食料品,化学,一般機械,木材・木製品が中心で,水産業はマグロ,カツオなどの遠洋漁業を主とする。清水港江尻船溜りの年間水揚高(1996)は620億円である。中央資本の大型冷凍倉庫を背景に水揚高は急増し,他港船の水揚げも多い。農業は庵原,有渡山のミカン,茶,三保の施設果菜類,久能地区のイチゴなど。古墳時代中期の三池平古墳,日本武尊伝説を伝える草薙(くさなぎ)神社,俠客清水次郎長の墓がある梅蔭寺,山岡鉄舟が再興した鉄舟寺,清見寺(庭園は名勝)などがある。久能地区は毎年1~5月にはイチゴ狩客でにぎわう。〈国際海洋文化都市--マリンピア清水21〉の開発計画などが進められている。JR東海道本線,国道1号線,東名高速道路などが通じる。
執筆者:

駿府の外港として発達した港町。江戸時代初頭,駿府城下町の整備と同時期に巴川河口右岸の浜清水に町を形成。幕府の御船蔵,船手奉行が置かれた。富士川舟運の発達にともない甲信方面からの下り荷の甲州廻米,上方方面から甲信向けの塩,その他の中継港として繁栄した。1707年(宝永4)以降,甲州廻米揚場が設置され,諸藩役人が管理し,32年(享保17)には幕府御米蔵(1万石収容)が置かれた。元禄年間(1688-1704)まで清水は浜清水村と称され,駿府代官が支配し,1751年(宝暦1)町方は駿府町奉行支配となった。当時,清水町は本町,上1丁目,上2丁目,本魚町,新魚町,袋町,仲町,美濃輪町の8ヵ町から成り,本魚町,新魚町,袋町は魚座三町といわれた。町政は2名の名主,4~6名の年寄,各町の丁頭と組頭が担当した。清水には大坂の陣に際して営業許可をうけた42軒の廻船問屋が存在し,諸問屋といった。諸問屋は清水湊出入津商品を独占的に取り扱う特権をもち,安倍川以東,富士川以西の沿岸宿町村の直取引を厳禁して駿府の外港としての役割を果たした。主要な入津品は米穀,酒,油,塩,タバコで,出津品は薪炭,茶などであった。江戸時代初期,廻船60艘を有したが,1751年には大廻船13,小廻船2,総石数9500石,船主9,水主108であった。1861年(文久1)の職業別戸数は697,内訳は米穀塩諸色仲買70,廻船宿4,同小宿26,酒造家3,質屋10,菜種屋5,医師2,鍼医6,大工15,船大工20,桶屋5,左官4,石工3,木挽3,畳屋1,鍛冶職3,御蔵小揚20,甲州御城米小揚50,川岸小揚130,船乗60,漁師157,魚渡世100であった。78年清水町は巴川河口左岸に発達した寄州(向島)に波止場を築造,海港の町として発展する基礎をつくった。
執筆者:

静岡市東部の旧町。旧庵原郡所属。人口1万0013(2000)。南は駿河湾に臨み,東,北,西は山地で傾斜地が海に迫り,平地は少ない。集落は海岸沿いと町の中央を南流する由比川流域に集中している。江戸時代は東海道の宿場として栄え,本陣跡が残る。主産業は傾斜地でのミカン栽培と駿河湾内でのサクラエビ漁で,水産加工業も盛ん。静岡市の旧清水市や旧静岡市,富士市などへの通勤者もふえている。フォッサマグナ地帯に含まれるこの地域はこれまでに何回かの地すべりが発生し,1961年の寺尾地区の地すべり以後は海岸地帯の埋立てが行われた。JR東海道本線,国道1号線,国道バイパスが通じる。
執筆者:

駿河国の東海道の宿駅。鎌倉時代から宿駅として見え《海道記》貞応2年(1223)4月13日条に〈湯居の宿〉とある。15~16世紀には由比郷に由比氏が勢力をもち,武田信玄の駿河侵入後,江尻,興津から甲州へ通じる宿駅に指定された。1601年(慶長6)東海道の宿駅となった。由比宿は西町,中町,本町,新町からなり,今川氏の滅亡後帰農した本町の由比氏が名主・問屋を勤めた。《東海道宿村大概帳》によれば,戸数160,人数730人,本陣1,脇本陣1,旅籠屋(はたごや)32,宿内町並み5町半であった。小宿のため65年(寛文5)往還続きの北田,町屋原,今宿が加宿として本宿六分役,加宿四分役負担となり,94年(元禄7)さらに8ヵ村を加え,本宿・加宿各五分役を負担した。山地が急傾斜して駿河湾にせまる東西の狭隘な地に町並みを形成,もっぱら男は宿稼ぎ,女は木綿機を織った。隣宿の興津との間の薩埵(さつた)峠は街道の難所であった。
執筆者:

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世界大百科事典(旧版)内の静岡の言及

【駿府】より

…駿河国(静岡県)の城下町。1869年(明治2)賤機(しずはた)山にちなみ静岡と改称した。…

※「静岡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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