片村(読み)かたひむら

日本歴史地名大系 「片村」の解説


かたひむら

[現在地名]大安町片樋

高柳たかやなぎ村の西北、員弁川があお川を合せる地点より少し下流の右岸に位置し、東部を員弁街道が通る。「神鳳鈔(新校群書類従本)に「内宮片火御厨八丁」とみえ、「片日」「片火」などと記す異本もある。同書奥書の注記に従えば、少なくとも、建久四年(一一九三)には、伊勢神宮(内宮)領となっていたと推定しうる。しかし、貞和二年(一三四六)までに、同じく内宮領で付近にあった丹生河にゆうがわ御厨の一部となり、「片火村」と称され、応安二年(一三六九)には高岡山正法しようほう寺の開基檀渓が支配していた(鴨神社文書)

片村
かたむら

[現在地名]御津町岩見いわみ

釜屋かまや村の西に位置する。文禄三年(一五九四)六月五日の小出吉政宛の豊臣秀吉知行方目録(金井文書)に「かた村」とみえる。同四年一二月一日の豊臣秀吉知行方目録(教行寺文書)によると、「かた村」一四二石余など合せて二千石が教行きようぎよう(現西宮市)に寄進されている。慶長国絵図にも「かた村」とみえる。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高一七〇石余、高一四〇石余。ほかに新田として内検地高一〇三石余、高八五石余が記される。正保郷帳では田方二〇九石余・畑方一七石余。天保郷帳では高二七九石余。

片村
かたむら

[現在地名]洞戸村片

板取いたどり川の支流柿野かきの川北岸に位置する山間の村。南東通元寺つうげんじ村。出郷石浦いしうらがある。正保四年(一六四七)の洞戸村免定(河合文書)に「かた分」とみえる。元禄郷帳に洞戸片村と記され、高三〇石余。「濃州徇行記」によれば高四三石余、田一畝余・畑五町二反余、当村は人数六六の上組と七八の下組に分れ、紙漉専業とした。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報