灰塚村(読み)はいづかむら

日本歴史地名大系 「灰塚村」の解説

灰塚村
はいづかむら

[現在地名]大東市灰塚一―六丁目・朋来ほうらい一―二丁目・三洋さんよう町・大野おおの二丁目・諸福もろふく二丁目

三箇さんが村の南西にあって現市域の最南部を占め、北西の村境を寝屋川が流れる。讃良さらら郡に所属。もと島であったが大和川分流の土砂により南方の若江郡(現東大阪市)地続きになり、東も現東大阪市と接する。地元の伝承によれば集落はもと南方の低平地の堂前どうぜん付近にあったが、水難を避けて現在地に移ったという。伝承地の周辺から弥生中期の土器片のほか、奈良時代の直口壺(完形)や、火焔で変色した布目瓦が平安初期の須恵器と伴出し、鎌倉時代の五輪塔の水輪も残る。集落をめぐる濠は近世中期に鴻池こうのいけ新田(現東大阪市)との対抗上掘ったという。

灰塚村
はいつかむら

[現在地名]えびの市灰塚

西長江浦にしながえうら村の北、長江川中流左岸地区にある。永禄五年(一五六二)伊東氏の軍勢の攻撃を受け、家人十数人が討死した大河平隆利は、敗れはしたもののその奮戦ぶりを島津氏から賞され、加久藤かくとうのうち灰塚など三ヵ所を宛行われたという(「大河平家系図」大河平家文書)。江戸時代には加久藤郷に属した。慶長内検後の慶長二〇年(一六一五)灰塚村のうち浮免高四石余が諸役免除の地として、白鳥山金剛乗院満足まんぞく寺へ安堵されている(「町田久幸外三名連署知行目録」旧記雑録)。寛文四年(一六六四)の諸県郡村高辻帳では表高二八四石余。

灰塚村
はいづかむら

[現在地名]三良坂町灰塚

仁賀にか村の東南、湾曲する上下じようげ川に沿う沖積平地に位置する。元和五年(一六一九)の備後国知行帳に高四四九・五二八石とあり、「芸藩通志」は「広廿町袤一町余、四境山多く只東は漸く豁けり、東川村中を経て北に出る」と記す。「東川」は上下川の別名である。

同書では村高が七四一・四三八石と大幅に増え、田畝六五町八畝を記す。戸数一三四・人口五九七、牛一四九・馬二六。なお「事蹟緒鑑」に寛政三年(一七九一)六月、「灰塚村百姓菊松母百歳ニテ、自身織立候木綿差出、長寿之手業稀成儀(中略)厚志之程奇特之至ニ付、鳥目三貫文宛被下」とみえる。

宗像むなかた神社は口碑に天文年中(一五三二―五五)萩原はぎはら城主湯谷又八郎久豊が、筑前国宗像神社(現福岡県宗像郡玄海町)を勧請したもの(双三郡誌)という。

灰塚村
はいつかむら

[現在地名]下館市灰塚

大谷おおや川右岸に位置し、西はそうじま村。弘治二年(一五五六)二月一五日の結城政勝書下状(称名寺文書)に「称名寺門徒之事(中略)灰塚上之坊」とあり、結城政勝は、称名しようみよう(現結城市)門徒に対し、同寺に出仕して行事・洒掃などの義務遂行を命じている。

江戸時代は寛永一九年―寛文三年(一六四二―六三)の在番時代を除き下館藩領で、元和九年(一六二三)の水野谷様御代下館領村々石高并名主名前控(中村家文書)に村高四七九・七五五石とあり、天保八年(一八三七)の常陸御国絵図御改之記(同文書)には高四七九・七五五石、鎮守二社権現、家数二一、馬一一とある。

灰塚村
はいづかむら

[現在地名]大津町灰塚

塔迫とうのさこ村の南、白川右岸の古い段丘面のほぼ中央部にあたり、瀬田下せたした井手の灌漑によって周囲は水田地帯となっている。慶長一三年(一六〇八)検地帳によると、戸数二三・家数三〇、人数四八、牛馬一六、田一三町七反一畝余、畠(屋敷ともに)三一町五反余、分米三七八石四斗余。寛永一〇年(一六三三)人畜改帳では下町組に属し、戸数四・家数一五、人数一六、牛馬七、居百姓分の高一六六石六斗余・出作分四六石余である。

灰塚村
はいづかむら

[現在地名]田主丸町志塚島しつかしま

高島たかしま村の西、巨瀬こせ川右岸に位置する。本高は九一石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高一七〇石・役高二八四石。享保一二年(一七二七)の夏物成は大麦九石六斗余・小麦五石二斗余・菜種二石(「本地夏物成帳」中村家文書)。寛政元年(一七八九)の撫斗代七斗、人数一〇〇、馬九(上三郡取調手鑑)。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高二八五石、文化四年(一八〇七)畝付帳では本田七町余・開田二歩・畑田八町七反余・畑二町九反余・居屋敷二反余。

灰塚村
はいづかむら

[現在地名]西合志町御代志みよし

合志こうし台地の北西、鳥栖とりのす村の東に位置する。慶長一三年(一六〇八)の検地帳に「合志郡鳥栖之内灰塚村」とあり、鳥栖村に含まれていたことがわかる。その後独立村となり、寛永一〇年(一六三三)の人畜改帳によれば和生組に属し、戸数六・家数三七、人数四一(うち庄屋一・百姓五・名子四)、牛馬一四。その後竹迫手永に属し、「国志草稿」では「灰塚村百八十石ヨ」と記されているが、「肥集録」ではひらとともにつじ村の小村とある。

灰塚村
はいづかむら

[現在地名]山形市灰塚

渋江しぶえ村の北に位置し、立谷たちや川の下流北岸平地に立地。寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録に村名がみえ、高一千一五一石余。正保郷帳では田八九九石余・畑二五一石余・寺社領一五石余。「最上記」によれば寛文・延宝検地高一千一三四石余。天保一三年(一八四二)の高一千三一九石余(村山郡石高帳)。立谷川扇状地の扇端に位置し、用水に恵まれず、とくに立谷川から揚水する高田たかだ堰をめぐり高擶たかだま(現天童市)と紛争が多かった。

灰塚村
はいづかむら

[現在地名]水原町境新さかいしん

境新村に隣接する。貞享元年(一六八四)の村上藩領分郷村高辻帳に高一二石六斗余とあり、元禄郷帳にはまきしま村枝郷と記される。元文二年(一七三七)の堀越組御検見村順御案内帳(北方文化博物館蔵)によれば、高四〇石八斗余、田反別三町余・畑反別二反余、家数四(高持二・高無二)、男九・女六。

灰塚村
はいづかむら

[現在地名]上越市灰塚

京田きようでん村の南に位置し、高田城下新井あらい(現新井市)を結ぶ道が通る。正保国絵図では高一二一石余。天和三年郷帳では三一八石四斗余、うち山高八斗一升六合・漆高四升。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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