漢簡(読み)かんかん(英語表記)Hàn jiǎn

改訂新版 世界大百科事典 「漢簡」の意味・わかりやすい解説

漢簡 (かんかん)
Hàn jiǎn

竹,または木の札に書かれた中国,漢時代の文書や記録。紙は後漢初に蔡倫が発明したという伝説が普及しているが,紀元前2世紀の紙も出土している。ただそれらは包紙として用いられ,書写材料は帛(はく)または簡牘(かんとく)であった。漢簡の標準は長さが当時の1尺(約23cm),幅5分程度のもので,約30~40字を1行に書く。幅を2倍に広げ2行書けるものを両行(りようこう),長さ2尺のものを檄(げき),3尺のものを槧(ざん),文書の上蓋で宛名を書くものを検(けん),物品に名称を書いて付ける絵符の働きをするもの,日本の木簡のつけ札に当たるものを楬(けつ),合わせて証明に用いる符,旅行者の身分証明である棨(けい)など形態,用途により名称が細かく分かれている。当時の文書・記録は,通常簡をひもで結びつらねて書いた。これを象形した文字が册(策)で,結びひもを編と呼ぶ。

 漢簡を最初に発掘したのはイギリスのオーレル・スタインで,1907年(光緒33)に彼の第2次中央アジア探検において,甘粛省敦煌北方に残る漢代の遺跡から700余点を得た。現大英図書館に存する敦煌漢簡で,フランスのÉ.シャバンヌにより釈読され,中国の羅振玉王国維にも《流沙墜簡》の研究がある。スタインは13年からの第3次探検でも敦煌から東方にかけての漢代遺跡で166点の漢簡を得た。20世紀前半の最大の発掘は30-31年に西北科学考察団The Sino-Swedish ExpeditionのF.ベリマンが内モンゴルのエチナ川流域で発掘した1万余点の居延漢簡で,別に黄文弼も71点のロブ・ノール漢簡を発見した。居延漢簡は第2次大戦により研究が遅れたが,労榦《居延漢簡》,中国社会科学院考古研究所《居延漢簡甲乙編》などの写真と釈文があり,日本では森鹿三を中心に研究が進展した。20世紀後半に入ると,73-74年のエチナ川流域の再調査で約2万点の居延漢簡が発掘され,79年には1300点の敦煌漢簡が発見されて漢代の辺疆地域における出土簡は著しく増加した。また,1959年の甘粛省武威後漢墓出土の儀礼500点,72年同後漢墓出土の医書90点,山東省臨沂銀雀山前漢墓出土の孫武,孫臏(そんひん)兵法など4900点,72,73年の長沙馬王堆1号・3号漢墓出土の970点,73年河北省定県前漢墓出土の書籍8種,73-75年湖北省江陵鳳凰山前漢墓群出土の570点,78年青海省大通県前漢墓出土の400点など,中国内郡においても漢墓から多数の出土をみるようになった。

 漢簡の内容は,書籍,墓の副葬品のリストである遣策,皇帝制詔将軍・郡太守の命令など下達文書,下級官よりの上申文書,各級行政機関における記録,帳簿類など当時のあらゆる面におよび,ことに大量の出土を見た居延・敦煌漢簡からは,辺疆の行政・軍事の制度,屯田郵逓,民衆生活などを明らかにできるので,典籍の記載を補うことが可能である。
木簡
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普及版 字通 「漢簡」の読み・字形・画数・意味

【漢簡】かんかん

漢の木簡・竹簡

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世界大百科事典(旧版)内の漢簡の言及

【木簡】より

…なおイギリスのローマ時代の遺跡や韓国の慶州雁鴨池からも出土し,インドの貝多羅(貝葉)も同様であるとすれば,木を削って文字を書くのは世界共通の文化現象といえる。
【中国】
 木簡は世界各地から出土しているが,その中でも中国は,戦国時代から秦,漢,晋を経て唐代にいたるまでの出土遺物があり,わけても漢簡は1983年現在で4万点におよぶ出土を見,他の地域とは比較にならぬほど事例が多いので研究も発展しており,木簡研究といえばほとんど中国のことになる。冊の例でもわかるように,漢字には木簡に関する文字が多くあり,それだけ概念が発達していたことを示す。…

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