満福寺(読み)まんぷくじ

日本歴史地名大系 「満福寺」の解説

満福寺
まんぷくじ

[現在地名]秋田市楢山古川新町

元の楢山寺小路ならやまてらこうじの東詰南にある。曹洞宗、宝徳山と号し、本尊虚空蔵菩薩。元禄五年(一六九二)写の秋田六郡寺院調書(県立秋田図書館蔵)には、「開基不知、勧請開山本寺」とある。

梅津政景日記」寛永八年(一六三一)三月六日条に天徳てんとく寺前住職の閑居地を楢山に物色したとあり、同書三月九日条に、

<資料は省略されています>

とある。銀庄は不詳、永源屋敷は天徳寺の塔頭永源えいげん院で、寛永二年天徳寺のいずみ移転に伴い、永源院も泉に移った。跡地は佐竹北家の菩提寺常光じようこう(曹洞宗)の屋敷地としたが、この時、その地を天徳寺閑居屋敷にあて、常光院は満福寺の西脇、御北御下屋敷の次に造営しようというのである。

満福寺
まんぷくじ

[現在地名]養父町十二所

十二所じゆうにしよ集落の北方、新宮しんぐう山の中腹にある。新宮山と号し、高野山真言宗に属する。行基の開創と伝え、奥院観音堂に行基作といわれる千手観音(秘仏)を安置し、但馬高野と称されたという。文明一八年(一四八六)一一月晦日付で全八一筆以上(一部欠失)、総面積七一町六〇歩と五所以上(同上)の田畠を書上げた満福寺田畠帳(寺蔵)が作成されている。供僧分の田畠を配分されている供僧は窪之坊・本浄院・北之坊・上之坊・大門坊・角之坊・中坊・下之坊・東坊・倉之坊・辰巳坊・岡之坊・辻坊・北坊・大谷坊・ママ坊の計一六坊にのぼり、また如法経田・御影供田などの記載もあり、当時盛大な寺容を誇っていたことが推測される。

満福寺
まんぷくじ

[現在地名]上三川町東蓼沼

鬼怒川右岸の微高地上、東蓼沼の本郷ひがしたてぬまのほんごうにある。真言宗智山派。宝珠山吉祥院と号し、本尊は室町時代作の不動明王。当初は山城醍醐寺無量寿むりようじゆ院の末寺であったが、明治二七年(一八九四)京都智積ちしやく(現東山区)末となる。建久年間(一一九〇―九九)醍醐寺宝山阿闍梨の開山で、開基は宇都宮頼綱。その後火災で殿堂坊舎を焼失したが、享保年間(一七一六―三六)歴代一四世良広が本堂を再建したと伝える。由緒書によれば、当寺の創始はほとけ沼より出現した不動明王像に霊験を感じた宇都宮頼綱が一宇を設けてその像を安置したことによるという。慶長一七年(一六一二)に真言宗寺院が本山派山伏による役銭徴収の停止を醍醐寺に訴えた際の関東八州真言宗諸寺連判留書案(醍醐寺文書)に当寺の名もみえる。

満福寺
まんぷくじ

[現在地名]美里町神野市場

神野市場こうのいちばの中心部にある。瑞応山と号し、高野山真言宗。本尊十一面観音。「続風土記」によれば古く神野寺と称し、神野荘一七ヵ村の氏寺であった。縁起に「建保元年ノ文書に昔者宝亀元年ノ頃為光聖人建立之堂并池也」とある。「紀伊国名所図会」によれば為光は唐の青竜寺の人で、名草なくさ紀三井きみい(現和歌山市)など数ヵ寺を創建したとされ、当寺も那賀なが郡有数の古寺であったという。また「続風土記」は棟札を引いて「弘安十年丁亥十月十六日造始、満福寺為光上人建立七随一、修造徳治三年戊申二月六日、寺別当円地、大願主荘中云々、刀禰百姓等云々」とも記す。

満福寺
まんぷくじ

[現在地名]鬼石町譲原 地中

十石じつこく街道沿いの山寄りにある。時宗、三波山清水院と号し、本尊は法冠阿弥陀如来。寺伝では延文三年(一三五八)真下伊豆守勘解由左衛門尉(法名満徳院与阿弥陀仏)の開基、開山は桂光院基阿登雲という。天正一九年(一五九一)徳川家康から譲原ゆずりはら郷内で朱印地三石を与えられる(寛文朱印留)。寺領は寺支配の永高八貫文と寺抱百姓分の永高一二貫文余からなり、ほかに月三日の寺役などを勤める門前百姓がいた(年未詳「寺抱百姓年貢諸役取極」山田文書)。寛永二一年(一六四四)元住持と当住持の非法五ヵ条を旦那衆から本山に訴えられた(「住持非法訴状」同文書)

満福寺
まんぷくじ

[現在地名]川本町畠山

荒川南岸に位置し、北に井椋いぐら神社、南西に畠山はたけやま館跡がある。白田山観音院と号し、真言宗豊山派。本尊は千手観音。平安後期の鳥羽院の時代に弘誓房深海が草創、寿永年中(一一八二―八五)畠山重忠が伽藍を整え、重忠の没年の元久二年(一二〇五)弘光こうこう(現岡部町)の僧宥玉が中興したと伝え(風土記稿)、畠山氏一族ゆかりの寺院と考えられる。慶安元年(一六四八)寺領一〇石余を寄進された(満福寺文書)

満福寺
まんぷくじ

[現在地名]美和村上檜沢

川を西南に見下ろす台地上にあり、上檜沢小学校の北隣にあたる。大原山常楽院と号し、真言宗智山派。本尊は大日如来。「新編常陸国誌」の満福寺の項によると、暦応二年(一三三九)源義長(佐竹一族の依上義長)がこの地の禅宗浄因じよういん寺の梵鐘製作の大檀那となっていることが記される。寛文三年(一六六三)開基帳(彰考館蔵)によると、浄因寺は下檜沢村の満福寺末寺であった。浄因寺は同六年徳川光圀の命で破却され、その跡へ満福寺が移された。満福寺は享徳三年(一四五四)の開基で、末寺五ヵ寺、門徒一四ヵ寺、百姓檀那一六〇人、寺領一〇石余を有した。

満福寺
まんぷくじ

[現在地名]小野町小戸神

東堂とうどう山の山腹、日向ひなたに所在する浄土宗寺院。東堂山と号し、本尊阿弥陀如来。大同二年(八〇七)の開山と伝える東堂山観音堂の別当寺として創建された。天文二二年(一五五三)五月吉日の観音堂棟札(東堂山観世音古棟札写「旧記万用帳」満福寺文書)に「奉造立東堂山満福寺本願吁叟照永十穀宮黒丸 無順坊」とみえる。中世の伽藍については、寛文四年(一六六四)の山火事で焼失したため不詳だが、天保一五年(一八四四)の人別宗門改帳(満福寺文書)によれば、本堂・庫裏・観音堂・天神社・毘沙門堂岩屋不動のほか宮五社・堂五宇があった。

満福寺
まんぷくじ

[現在地名]村上市羽黒町

臥牛がぎゆう山から南西に延びる丘陵、山居さんきよ山の北麓にある。東は西奈弥羽黒せなみはぐろ神社、西は長楽ちようらく寺が並ぶ。体真山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。寺伝では延享(一七四四―四八)頃まで村上山と称していたという。

満福寺
まんぷくじ

[現在地名]鎌倉市腰越二丁目

小動こゆるぎ神社向いの高台、浜上はまじようにある。真言宗大覚寺派。竜護山医王院満福寺と号する。本尊薬師如来。寛永一〇年(一六三三)の「関東古義真言宗本末帳」には海北山万福寺とある。寺伝では天平一六年(七四四)行基創建、承安年中(一一七一―七五)高範中興という。

満福寺
まんぷくじ

[現在地名]三好町三好 蜂ヶ池

東北山と号し、浄土宗西山深草派。阿弥陀如来を本尊とする。もと長沢ながさわ(現宝飯郡音羽町)宝蔵ほうぞう寺末寺。「西加茂郡誌」によれば、万寿二年(一〇二五)に創建され、初め天台宗に属し石塔山大乗寺と称し、永享四年(一四三二)僧見洞の代に改宗・改名したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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