譲原村(読み)ゆずりはらむら

日本歴史地名大系 「譲原村」の解説

譲原村
ゆずりはらむら

[現在地名]鬼石町譲原

南境から東境神流かんな川が流れ、武蔵国児玉こだま郡と境し、北は緑野みどの郡鬼石村、西は同郡三波川さんばがわ村と接する。甘楽かんら郡に属し、北部を十石じつこく街道が東西に走る。永禄六年(一五六三)武田信玄との申合せによって北条氏から安保氏に与えられた地に「譲原村」がある(同年五月一〇日「北条氏康・氏政連署知行宛行状」安保文書)

慶長一九年(一六一四)・元和元年(一六一五)の年貢割付状(山田文書)には「譲原郷」とあり、永高五四貫文余。近世はおおむね幕府領。寛文郷帳には元禄郷帳では当村の枝村となる今里いまざと村・萱蕪かやかぶ村とともに記され、三ヵ村の高合計二七二石余はすべて畑方。寛永一六年(一六三九)の年貢請取状(同文書)には永四四貫文余の金納分のほか、永一〇貫文余の漆、永二貫文余の紙舟役本などがみえる。漆は安永八年(一七七九)の正漆上納諸入用帳(同文書)や天保一四年(一八四三)の年貢漆書上帳(同文書)でも一貫四八〇目を納めており、保美濃山ほみのやま村に次いで多い。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報