(読み)やま

精選版 日本国語大辞典 「山」の意味・読み・例文・類語

やま【山】

[1] 〘名〙
① 火山作用、浸食作用、造山作用によって地表にいちじるしく突起した部分。高くそびえたつ地形。また、それの多く集まっている地帯。山岳。日本では古来、神が住む神聖な地域とされ、信仰の対象とされたり、仏道などの修行の場とされたりもした。
※古事記(712)中・歌謡「命の 全けむ人は 畳薦(たたみこも) 平群の夜麻(ヤマ)の 熊白檮(くまかし)が葉を 髻華(うず)に挿(さ)せ その子」
② 特に植林地、伐採地としての山林。種々の産物を得たり、狩猟したりするための山林。
※万葉(8C後)四・七七九「板葺の黒木の屋根は山(やま)近し明日の日取りて持ちてまゐ来む」
※随筆・北越雪譜(1836‐42)初「阿彌陀峯とて樵する山あり」
③ 鉱石、石炭などを採掘する場所や諸施設。鉱山。
梅津政景日記‐慶長一七年(1612)三月八日「わきさし成共、鉛のつきたる道具をとめおかれ、やまへは法度に候間」
※あらくれ(1915)〈徳田秋声〉四八「この米が皆な鉱山(ヤマ)へ入るんだせ」
④ (墓地が、多く山中、山麓に営まれたところからいう) 墓場。墳墓。山陵。葬送地。みやま。
※源氏(1001‐14頃)須磨「御山に参り侍るを。御言伝やと聞え給ふに」
⑤ 土を盛り、石を積んで①に擬してつくったもの。築山。
※源氏(1001‐14頃)桐壺「もとの木立、山のたたずまひ、おもしろき所なりけるを、池の心広くしなして、めでたく造りののしる」
⑥ 高く盛り上がった状態、またはその物を①になぞらえていう語。
(イ) 種々のものを多数または大量に盛り上げ、あるいは積み重ねた様子。また、比喩的にきわめて量の多い様子をいう。うずたかい形。
※蜻蛉(974頃)上「山とつもれる しきたへの 枕の塵も」
※浮世草子・日本永代蔵(1688)一「その米は、蔵々にやまをかさね」
(ロ) 物の凸起した状態。また、その部分。
※滑稽本・浮世風呂(1809‐13)三「鼈甲の櫛さ〈略〉山(ヤマ)の恰好から何から今風で」
(ハ) 兜(かぶと)の鉢(はち)
※雑俳・生鱸(1704)「我文をかぶとの山の下ばりに」
(ニ) 灸(きゅう)のあとのはれているところ。
※雑俳・柳多留‐七九(1824)「かんぜなさ泣て二日の山をみる」
(ホ) 吉原細見で、遊女の格付けにしるす記号。入山形(いりやまがた)
※雑俳・川柳評万句合‐安永四(1775)智四「山だの星だのがおやじげせぬなり」
⑦ 物事の程度がはなはだしいことのたとえ。程度が高い様子。
※光悦本謡曲・東岸居士(1423頃)「罪障の山にはいつとなく煩悩の雲あつうして」
⑧ 継続または連続している物事が頂点に達したのを、①の頂上にたとえていう。
(イ) 文章や演芸などで、そのおもしろさが最高潮となるところ。また、一般に物事がいちばんよいと感ぜられるところ。絶頂。クライマックス
※滑稽本・客者評判記(1811)上「わかりもせぬ狂言を、あそこが山だの爰が腹だのと」
(ロ) 事の成りゆきにおいて、もっとも重大なところ。事の成否がきまるところ。山場。
※パルタイ(1960)〈倉橋由美子〉「《経歴書》の作成が手続のヤマだとあなたはいった」
(ハ) 病気のもっとも危険な段階。峠。近世には、特に疱瘡(ほうそう)についていう。→山が上がる②・山を上げる
※俳諧・犬子集(1633)一五「見れとも山はまたはるか也 気みしかにおほしめすなよ此もかさ〈一正〉」
(ニ) 可能なかぎり。せいいっぱいのところ。関の山。
※洒落本・契情買虎之巻(1778)一「『はらのうへを、めのじにしてくんなんし』『いんや。はらが山だ』」
⑨ (①は高くゆるがないところから) 仰ぎみるもの、頼りとするもの、または、目標とするもののたとえ。
※後撰(951‐953頃)離別・一三二六「かさとりの山とたのみし君をおきて涙の雨にぬれつつぞ行く〈閑院大君〉」
⑩ 祭礼に出る山車(だし)で、①の形に作った飾り物。京都の祇園祭では、鉾(ほこ)よりもおおむね小型で、真木(しんぎ)を立てず、構造の簡単なものをいう。その多くは上に松を立て、根元に①をかたどったものを作る。舁(か)き山と曳(ひ)き山との二種類がある。また、山鉾の総称。
※御伽草子・付喪神(室町時代小説集所収)(室町中)「祭礼おこなふへしとて、神輿を造立したてまつる〈略〉山をつくり、桙をかさる」
⑪ 能楽や歌舞伎などの作り物の一種。竹で組んだ枠に引回しと称する紫や濃緑色の幕を張り、その上に笹や木の枝葉をかぶせて、山や塚を表わすもの。
※歌舞伎・土蜘(1881)「山(ヤマ)の造物、四本柱へ紙で拵へし蜘の巣三方一面にかかりある」
⑫ 紋所の名。山の形、または漢字の「山」を図案化したもの。三つ山、丸に遠山などがある。
⑬ 寺。また、境内。
※説経節・をくり(御物絵巻)(17C中)二「いちじは二じ、二じは四じ、百じはせんじと、さとらせたまへば、御やまいちばんの、がくしゃうとぞ、きこえたまふ」
(イ) 特に、江戸、芝の増上寺の寺内。主に品川の遊里でいった語。
※雑俳・柳多留‐一四五(1837)「山を出て海へ寐に行面白さ」
(ロ) 江戸深川の富岡八幡宮(別当は永代寺)の境内。特に、そこにあった二軒茶屋。
※洒落本・辰巳之園(1770)「久しうお出会致さぬ。山でのんだままかな」
(ハ) 江戸、浅草寺の山内。
※歌舞伎・東海道四谷怪談(1825)序幕「てめえこの頃ぢゃア山(ヤマ)の女にかかって、売り溜も親方の方へ遣らねえさうだが」
⑭ 猪・鹿などを捕えるために仕掛ける落とし穴。〔日葡辞書(1603‐04)〕
⑮ 山伏の称。
※雑俳・十八公(1729)「御気鬱に山のひたいも寄る談合」
⑯ 遊女。女郎。
※浮世草子・好色盛衰記(1688)三「幸ひ明日から、祇薗七日つづけて、山も太夫も根引にすべし」
⑰ (鉱脈を探し当てることが、投機的な仕事であるところから、③から転じて)
(イ) 思いがけない幸運をあてにすること。万一の幸運をねらって事を行なうこと。投機的な仕事。また、その対象となる物事。やまごと。→山が中(あた)る山に掛かる
※洒落本・蕩子筌枉解(1770)怨情「おほきに泣くは、まったく山がそんじてのこととみへたり」
(ロ) 確かな根拠がなく、偶然の的中をあてにしてする予想。特に、学生などが試験に出題される箇所を予想すること。また、その箇所。→山を掛ける
※二百十日(1906)〈夏目漱石〉一一「過去がかうであるから未来もかうであらうぞと臆測するのは、〈略〉一種の山(ヤマ)である」
(ハ) 見せかけや誇張などで他人をあざむくこと。いんちき。はったり。〔俚言集覧(1797頃)〕
※歌舞伎・早苗鳥伊達聞書実録先代萩)(1876)六幕「金に目が暮れ盗みをして逃げたと見せて二百両、持出したのがこっちの山(ヤマ)
⑱ 売切れ。品切れ。主に飲食物についていう。
※浄瑠璃・夏祭浪花鑑(1745)一「綿が高いの。銭が安いの手代共が寄合て、勘定が合ぬの引の山の、そんな事は空吹風」
⑲ 犯罪事件をいう俗語。
※黒い穽(1961)〈水上勉〉一「事件(ヤマ)は迷宮入りくさいな」
[2]
[一] 比叡山延暦寺の称。天台の霊場としての比叡山。
※古今(905‐914)雑下・九五六「山の法師のもとへつかはしける 世をすてて山にいる人やまにても猶うき時はいづちゆくらん〈凡河内躬恒〉」
[二] (山の手地区であるところから) 江戸の遊里、新宿の異称。
※洒落本・愚人贅漢居続借金(1783)序「深川(かは)に三年、吉原(さと)に三とせ、新宿(ヤマ)に三年」
[3] 〘接尾〙
① 山、特に山林や鉱山を数えるのに用いる。
※俚謡・選炭節(大正頃)福岡(日本民謡集所収)「一山二山三山越え 奥に咲いたる八重椿」
② 盛り分けたものを数えるのに用いる。「みかん一山百円」
[4] 〘語素〙
① 動植物の名の上につけて、それが同種類または類似のものに比して、野性のもの、あるいは山地に産するものであることを表わす。「やますげ(山菅)」「やまどり(山鳥)」「やまもも(山桃)」など。
② 動詞、形容詞などに添えて、しゃれていう語。特に意味はない。近世、通人の間に用いられた。
※洒落本・南閨雑話(1773)怖勤の体「どふぞして飯を一っはい働山は、出来まいかの」

さん【山】

[1] 〘名〙 袞龍(こんりょう)の御衣(天子が用いる礼服)の模様の一つ。
[2] 〘接尾〙 (「ざん」とも)
① 山の名につけていう語。「富士山」「磐梯山」「六甲山」「大雪山」など。
② 仏寺の称号に添えていう語。山号(さんごう)。「比叡山」「高野山」など。

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デジタル大辞泉 「山」の意味・読み・例文・類語

やま【山】

[名]
陸地の表面が周辺の土地よりも高く盛り上がった所。日本では古来、草木が生い茂り、さまざまな恵みをもたらす場所としてとらえる。また、古くは神が住む神聖な地域として、信仰の対象や修行の場とされた。「に登る」「海の幸、の幸」
鉱山。鉱物資源を採掘するための施設。また、採掘業。「を閉鎖する」

㋐土や砂で1の地形を模したもの。「築」「砂
㋑祭礼の山車だしで、1に似せて作った飾り物。き山とき山とがある。また、山鉾やまぼこの総称。
歌舞伎で、竹の枠に張った幕に、笹や木の枝葉をかぶせた作り物
高く盛り上がった状態を、1になぞらえていう語。
㋐高く積み上げたもの。「本のが崩れる」「洗濯物の」「と積まれた荷物」
㋑物の一部で周辺よりも突出しているところ。「ねじのがつぶれる」「帽子の
振動波動で、周囲よりも波形の高いところ。「計測された音波のの部分」
たくさん寄り集まっていることや多いことを、1になぞらえていう語。「見物人の」「宿題の
進行する物事の中で、高まって頂点に達する部分を1にたとえていう語。
㋐事の成り行きのうえで、それをどうのりこえるかで成否が決まるという、重要な部分。「病状は今日明日がだ」「仕事がを越える」→とうげ
㋑文芸などで、展開のうえで最も重要な部分。最もおもしろいところや、最も関心をひく部分。「この小説にはがない」
できることの上限をいう語。精一杯。関の山。
「学問は打棄って…、矢張浮気で妄想の恋愛小説を書いて見たいが―だから」〈魯庵社会百面相
見込みの薄さや不確かさを、鉱脈を掘り当てるのが運まかせだったことにたとえていう語。
㋐万一の幸運をあてにすること。
「何だか会社を始めるとか、始めたとか云うことを聞いたが、そんな―を遣って」〈秋声・足迹〉
㋑偶然の的中をあてにした予想。山勘。「試験のが外れる」
犯罪事件。主に警察やマスコミが用いる。「大きなを手がける」
10 売切れ。品切れ。主に飲食店で用いる。
11 《多く山中につくられたところから》陵墓。山陵。
我妹子わぎもこが入りにし―を便よすかとそ思ふ」〈・四八一〉
12 高くてゆるぎないもの。頼りとなる崇高なもの。
「笠取の―と頼みし君をおきて涙の雨に濡れつつぞ行く」〈後撰・離別〉
13 寺。また、境内。
「春は必ず―に来たり給へ。あたら妙音菩薩なり」〈読・春雨・樊噲〉
14 遊女。女郎。
「―も太夫も根引きにすべし」〈浮・好色盛衰記〉
15 動植物名の上に付いて、山野にすんでいたり自生していたりする意を表す。「猿」「桃」
比叡山ひえいざんの称。また、そこにある延暦寺えんりゃくじのこと。園城寺おんじょうじを「寺」というのに対する語。
[接尾]助数詞。
盛り分けたものを数えるのに用いる。「一300円」
山、特に山林や鉱山を数えるのに用いる。
[下接語]青山あき秋山あと石山いも入らず山岩山姨捨うばすて海山裏山大山奥山折り山肩山かな枯れ山黒山小山先山死出の山芝山しば島山しんすそ砂山関の山背山そでそま宝の山立て山手向たむけ山つきつるぎの山遠山とこめ山夏山螺子ねじ野山禿はげ裸山針の山針山春山引き山き山一山人山冬山坊主山ぼた山焼け山せ山山山夕山雪山四方よも
[類語](1山岳高山小山山山山並み連山連峰山脈山塊山系山地・山岳地帯・名山秀峰高峰最高峰高嶺大山巨峰主峰霊山霊峰/(2鉱山炭鉱金山銀山銅山炭坑/(6頂上頂点絶頂最高潮山場ピーククライマックス

さん【山】[漢字項目]

[音]サン(漢) セン(呉) [訓]やま
学習漢字]1年
〈サン〉
やま。「山河山岳山脈山麓さんろく火山高山登山氷山満山遊山ゆさん
鉱山。「銅山廃山
寺院。「山号開山本山
比叡山。「山門派
〈セン〉やま。「須弥山しゅみせん
〈やま〉「山道裏山野山雪山
[名のり]たか・たかし・のぶ
[難読]山梔子くちなし山茶花さざんか山茱萸さんしゅゆ山車だし山茶つばき山毛欅ぶな山羊やぎ山桜桃ゆすらうめ山葵わさび

さん【山】

[接尾]《「ざん」とも》
山の名に付けていう。「富士」「六甲
仏寺の称号に添えていう。山号。「比叡延暦寺」「金竜浅草寺」

むれ【山/×礼】

《古代朝鮮語から》山。
今城いまきなる―が上に」〈斉明紀〉

せん【山】[漢字項目]

さん

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改訂新版 世界大百科事典 「山」の意味・わかりやすい解説

山 (やま)

地表の個々の突起部をいい,山地は地表のうち複雑な起伏が広がっている山の集合する部分をいう。標高の最高はヒマラヤのエベレスト(8848m)である。山とは必ずしも高さの大小だけではなく,相対的な高みを指し,かつ山頂を囲む斜面との組合せでできている地形をいう。

 標高だけで高山(3000m以上),中山(1000~2000m),低山(1000m以下)とする区分もあるが,主要な山稜とそれに付随する主要な谷との間の高度差で示される起伏量の大小に従って,山地を大起伏山地(起伏量1800m以上),中起伏山地(900~1800m),小起伏山地(600~900m),丘陵地(150~600m)とする区分がある(アメリカの地理学者トレワーサによる)。これは世界の山地を対象にした区分なので,日本の山地に対しては上記の区分基準を下げ,大起伏(1000m以上),中起伏(500~1000m),小起伏(150~500m),丘陵地(50~150m)のようにした方が当てはめやすい。後者によると例えば赤石山地は大起伏,鈴鹿山地は中起伏,阿武隈山地西半は小起伏,比企丘陵は丘陵地といったように表される。

 山地は,起伏や山稜の配列,平面形の特色などから山脈,山系,山塊,高原などと呼ばれる場合があるが,〈山地〉はこれらを包括する概念といってよい。また環境要素として地形を考える場合,平地(平野),盆地に相対する地形地域が〈山地〉である。〈山地〉をやや限定して用いるときは,火山地や高原や丘陵地は除かれる。火山地は火山活動によって生じた起伏地であり,高原は広い範囲にわたってほぼ等量の地盤隆起運動つまり造陸運動を被った結果生じた台状の起伏地である。これに比して山地は限られた狭い範囲に激しい差別的地盤運動(これを造山運動という)が加えられ,さらに削剝浸食が伴って起伏が著しくなった部分である。また,山地は造山運動による断層・褶曲などをうけて一般に地質構造が複雑である。すなわち狭義には,山地といった場合,造山運動の結果生じた地質構造の複雑な起伏地をいう。丘陵地は起伏量が小さく,そのため地形環境が異なるので一応区別される。

 アルプス,ヒマラヤをはじめ世界の大山脈の多くは,地殻運動による横圧力によって地層が褶曲させられ,さらに撓曲運動により隆起した〈褶曲山脈〉である。日本列島も巨視的には褶曲山脈であるが,断層の発達が顕著で,局部的には断層崖によって境された〈地塊山地〉の例が多い。六甲山地(兵庫),木曾山脈(長野),生駒山地(大阪・奈良)などがその例である。また奥羽山脈や知床半島のように,造山運動に伴う火山活動により,山地の主脈に沿って火山が列状に並ぶ場合がある。さらに日光火山群,八ヶ岳火山群などのように,火山が群集して広い面積を占めたりするので,〈火山山地〉を区別して用いる必要があるわけである。

 山地にはこれを構成するおもな地質・岩石によって区分する呼名がある。例えば六甲山地や木曾山脈は〈花コウ岩山地〉の例で,花コウ岩特有の白色の山体と塊状の山容に特色がある。また〈結晶片岩山地〉は御荷鉾(みかぼ)山地(群馬),大霧山地(埼玉),四国山地北部(徳島)などにみられ,特有の風化粘土に起因する地すべりがみられる。北上山地,秩父山地などは〈古生層山地〉,奥羽山脈,出羽山地などは〈第三紀層山地〉であり,それぞれ岩石の硬軟を反映して特色のある山形を示している。前者の肢節はおおまかではあるが稜線の一部が突兀(とつこつ)とし,後者は緩斜面に富む一方,小谷に刻まれやすく特徴的な地すべりがみられる。

 おもにその山地の構造がつくられた造山の時期によって山地を区分する場合もある。スコットランドの山地やスカンジナビア山脈は古生代前半のカレドニア造山によってその概形を生じたので,これらを含めてカレドニア山脈と呼ぶ。古生代末の〈ヘルシニア(バリスカン)造山〉によって生じたのはアパラチア山脈,ウラル山脈,第三紀の〈アルプス造山〉によって生じたのはアルプス,ヒマラヤなど現在みられる大起伏の山地のほとんどである。日本の山地が現在の高さに至ったのはアルプス造山によるといってよい。奥羽山脈や出羽山地などを構成する第三紀中新統のグリーンタフ層は海底の地向斜堆積物で,これが激しい褶曲や深成岩の貫入を伴う造山運動をうけたが,これを〈グリーンタフ造山〉と呼ぶ。この時期も世界的なアルプス造山の時期と一致する。

 浸食輪廻説により,時間の経過とともに山地の形態の変化するようすを人の年齢にたとえ幼年山地,壮年山地,老年山地とする区分もある。開析谷によって鋭く刻まれるが原地形の小起伏面を大きく残している山地は幼年山地であり,大陸台地,高原がその極端な例である。壮年山地は接頭辞として早,満,晩を付して細分される。早壮年山地は谷間斜面は急であるが山稜になお小起伏面を残すもの,満壮年山地は山稜と谷の高度差(起伏)が最大になったもの,晩壮年山地は山稜が浸食されて低下し骸骨状になり,谷幅の広くなったものである。老年山地は削剝が進み起伏がさらに小さく緩やかになったものである。丹沢山地は早壮年,飛驒山脈は満壮年,筑波山地は晩壮年の時期にあたる例である。

 乾燥地域の山地の山腹には裸岩が目だち,湿潤地域の山地の山腹は森林植生に覆われるが,高度が大きくなり,樹木限界線を超えると高山草本帯から裸岩地となり,万年雪田や氷河が着生するようになる。山岳氷河の浸食をうけた氷食山地,多雪地帯で雪の浸食をうけやすい雪食山地はそれぞれ河食作用を主とする正規浸食の山地とは異なった地形の特色をもっている。
執筆者:

古代の山はその大部分が太古そのままの状態にあった。当時の山の民,里の民は首長の共同体支配のもとで,鳥獣の狩猟,草木果実の採取,焼畑などの生業や,他郷との往来のために山へ入り,その生活圏を広げていたが,山はなお神々と祖霊の支配する無主の世界であった。律令国家も〈雑令〉国内条で〈山川藪沢の利は,公私共にせよ〉と規定しただけで,山地は一般に官・民の共同利用に任せ,国家的用途と民業を妨げない範囲で,王臣,社寺,豪民らの私的な占取と用益を認めていた。そのうち聖地として占取された山陵,墓山,神山,寺山は排他的な独占性が強く,入山,狩猟,伐木が禁じられていた。また朝廷も官採の鉱山など公用の山地を〈禁処〉とした。山野の諸産物を採取するための経済的占取の場合は,杣山(そまやま)は木材,(まき)は草地,狩場は鳥獣とその利用目的に限って許され,それを理由に山を独占して住民らの入山・利用を妨げることは禁じられた。しかし,荘園制的大土地所有の発達にともなって,官衙,権門,大社寺,富豪らは,広く山野を囲い込んで,牧,御薗御厨(みくりや),御野などの領有を拡大し,四至(しいし)内に入った住民の斧・鎌などを没収し,山手その他の所役を賦課するようになった。こうして山野を場とする原始諸産業とそれに従事する住民を寄人・荘民として,中世の所領荘園の体制が確立する。一方,古代から中世にかけて活躍した山林修行者によって各地の霊山が開かれ,顕密の山岳寺院とその末寺諸山の組織が形成され,深山幽谷を遍歴修行して験力を得ようとする修験の山伏らが,大峰山をはじめとする諸国の名山高峰に,神仏習合の宗教的世界を繰り広げていった。
執筆者:

近世の村の多くは山野に隣接し,農民にとっても,山は生活に深くかかわっていた。村の成立そのものも,平地の農民が山地に開拓の歩を進めた例のほか,山地住民が山野を耕地化して農民化していった例があると考えられる。ただ,幕藩領主の年貢収取を中心とする支配は,耕地を経営する農民を主対象とし,文献は,平地住民の目に依拠したから,山地民に由来する村の証跡は,明確には伝わりにくい。〈ヤマワロ〉ということばが,《本草綱目》の狒狒(ひひ)にあてられて獣部寓類に編入されたのを著しい例とし,木地屋マタギ,杣人,炭焼きなど,平地住民と交渉をもった山地民も,程度の差こそあれ,蔑視の対象になり,彼らの側からの記録をまれにしか残さない。

 平地住民にとっても,山は経済的にごく有用な場であった。近世初期の都市造営と河川,池,堤などの土木工事の盛行は,木材の需要を急増させ,奥山までも樹木の伐採が進んだのち,大規模な植林策がみられた例が多い。農業経営自体にとっても,肥料,牛馬餌料の供給地として山は不可欠であり,その利用権をめぐって,村々が争った記録は多い。山の耕地化が進み,18世紀後半以後には桑畑の拡大欲などによる矛盾が紛争を生むこともあったが,紛争例が多く記録される反面,相接して山野を利用する多くの村の住民が,そこで相互交流の機会をもったことも見のがせない。山の口明けは,しばしば村民共同の一種の遊楽としての印象を伝えている。山は肥料,餌料,燃料や諸道具を生み出すほか,木の実や皮,草の根,キノコ類,渓流魚や鳥獣などを含めて,食料の供給地でもあり,飢饉のおりは,とくにその意味が大きかった。農民の領主に対する抵抗の一つとしての逃散(ちようさん)も,山の食料に支えられた面が注意さるべきだし,山林に隠れ住む〈疑わしきもの〉のせんさく令が,しばしば領主法にみえ,博奕(ばくち)も,山野を場に行われることがあった。山の木は,その根さえも灯火用などの需要があり,ウルシは,樹液と実との効用から本数を登録される例があり,イボタ蠟など山林の虫類産物も,小物成として徴されもした。古来の有力農民や寺で,家伝薬配布例が多いのは,その山野支配に由来する面をもつが,幕府や諸藩も山地薬草探索に熱心で,採薬者の深山への旅は,本草学を軸とした自然誌理解を進めた。薬としては,熊の胆を筆頭とする山の動物も重要であったが,動物類では,鷹の幼鳥捕獲が,とくに幕府の大きな関心事であった。実効抜きの珍鳥獣の探索も,18世紀の諸国物産調などで試みられ,ライチョウの捕獲・飼育例が記録されている。金属と陶土,また土木材料としての石,庭石や石臼材などに及ぶ鉱物も,主として山に求められ,鉱山開発の計画者が深山を探訪した。〈ヤマ〉ということばは,ときに鉱山を意味した。温泉の多くも山地に見いだされ,湯治が,日常生活からの解放と休息の機会となったのは,山の食料や薬,修験の道場としての役割などとも結びつき,さらに山という平地世界と異なる環境が重視された結果と考えられる。

 山利用のための道は,しばしば諸村の共同作業を生み出し,村々の争論をも生んだが,遠隔地間を結ぶ道は一般に山を越えたので,意図して山に入るもの以外にも,通行者は多かった。古くからの国境(くにざかい)のほか,諸大名領の境が山であることも多かったから,そこに関所や番所が設けられ,警衛の任を帯びた村が設定されたりした。18世紀ころから,古来の特権的な商業従事者などの統制に対して,新規の流通路を求める動きが強まり,険阻な山道が新たに開発される。冬季,山道の避難小屋が設けられた例もある。

 山は,また河川の水源であり,河川は運材路として重要であったが,農業用水の新開発を企図するものが深山の探索者となった。山林の濫伐が水源を失わせる危惧も大きく,山崩れは,その形状から蛇抜(じやぬ)けなどと呼ばれて恐れられた。幕府が1666年(寛文6)に発した諸国山川掟は,淀川・大和川水系の山について,所領の別を超えて,水源涵養のための治山策を命じたものとして注目される。

 山資源は近隣住民に利用されたが,例えば鷹巣山は王者の権として将軍家の鷹狩用に鷹の子を調達すべき山とされ,住民のいっさいの利用を拒否する地であった。鉱山も将軍家に強く支配された。優良木材の多くが,領主の排他的な利用権下に置かれ,その河川工事などの土木工事の権限をも支えたが,これも本来将軍家御用に当てられる論理に出発したらしい。キノコや川魚類が,将軍家への献上品として,住民の利用を制される例もあった。また,村々の山野利用権をめぐる争いは,最終的には幕府の裁許に待つものであり,諸領接触域の山野の開発について,幕府は,個別領主の権限を否定する方針をとった。中国古典にみえる〈名山大沢は封ぜず〉という主張に支えられて,石高を付さない山野は,基本的に将軍家のものとする観念が存在した。これと,山が平地世界から解放される場であるかにみえる面との関係は,大きな問題であるが,領域を限って,その範囲内を支配地とする論理に対して,耕地経営と密着した山野利用の進展が,事実上,耕地経営者の山への私権の成長をもたらしていった面に注目してよかろう。幕府の薬草への強い関心にもかかわらず,山間地住民の薬草利用とその知識が,幕府に集約しきれなかったことも,この事情の一端を示す。

 山は,しばしば信仰の対象であったが,とくに参詣の対象とならない山でも,雨乞いの際に登る場になったりした。旅行者や航海者にとって,山は重要な目印であり,伊能忠敬らに至る測量も,山のこの機能に依拠していた。山肌の雪模様や山にかかる雲などの観察経験から,農事暦や天候を読み取っていたことも,広くみられ,一つの山を同一方向から見る者は,イメージに結びついた郷土感覚を共有した。名山が,しばしば郷土の誇りの第一にあげられるのは,そのような事情によるであろう。
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少なくとも日本を含めたアジア諸地域においては,生活様式としての山の民俗を里の農村や都市のそれと比較して,後進的であるという前提に立って研究が進められてきた。里の生活様式を中心としてみた山の後進性への関心は,山にはより古い生産形態や社会組織,信仰現象が残存しており,それを抽出することによって里の現在を説明することが可能と考えたためである。したがって,なぜ後進的であるかについての検討は十分なされないままであった。その要因の一つは,日本の民俗や歴史が水田稲作農耕を単一の基盤として形成され,一元的に発展してきたという常識に支配された研究者が多かったためであり,山と里の生活様式の違いを体系的な文化の差としてとらえようとする問題意識が生まれにくかったのだといえる。

 長い日本の歴史をとおして,水田稲作農耕文化の強い刺激を受けながらも,山棲み独自の文化が維持されてきたのは,何よりも山という自然と人間との相互作用に基づく生産形態の相違によるものであった。その一つは焼畑や常畑に代表される畑作農耕である。根菜類や穀類を主とする畑作農耕は,水田稲作とはその生産技術に差があり,また生産される作物の認識体系や利用法も異なっている。水田稲作に一義的価値を置く側からみれば,非稲作農耕を劣位に置き,そのような農耕しか行いえない人間も同様に劣位に位置づけるということになる。これは大きな誤解である。技術論的次元では根菜・雑穀栽培から稲作への変遷を考えることが可能であるが,各段階はそれぞれ独立した対等の文化であり,共存することのできる文化なのである。山で根菜・雑穀栽培に従事する人々もまた,稲が根菜類や雑穀よりも優れていると認識している。これは少なくとも近代以降,政治も学問も一貫して里における稲作の近代化や合理化を推し進めてきたためである。また根菜・雑穀栽培に関する研究や検討すべき資料も失われて,その価値についての評価がむつかしくなっているためである。

 いま一つは,山が豊富な生活資源を提供する場でもあったことである。自給自足的には草や木などの採取物があり,また交易品生産のための専門技術としては,養蚕,狩猟をはじめ木工業,鉱業,薪炭業などを成立させる資源を山は有していた。これらの産物や技術は里との交流に結びつき,山の文化に対する認識を深めさせてきたのであるが,彼らが里を漂泊し,やがて定住するにいたって,水田稲作農耕民から劣位に置かれるようになった。しかし山と人間との相互作用のうえに成立した多様な生産技術は,里の文化に刺激を与える役割を担っていたのである。

 山を舞台とした人間と人間との関係は,山を共有することを前提に成り立っているため,対等を原則としてきたといってよい。木の実や山菜の類の採取は口明け制の慣行により,特定の日時を定めて山に入るのがふつうである。近畿地方のように,松茸の出るころになると,私有の山であっても村や区が松茸の採取権を入札制で売却し,その収益を公共の費用に当てるところもある。また,狩猟の場合の獲物の分配は参加者に平等であり,ときには鉄砲の音を聞いて駆けつけた者があっても平等に分配したので,山分けという言葉が一般化したほどである。

 焼畑も共有の山を利用することが多かった。特定の区画を焼いて数年の間作物を栽培し,土地の力が弱まると放棄して山に戻し,他の区画を焼くのである。焼くときは共同作業で行っても,栽培の作業は単独で行われた。共同で山を利用しながら,狩猟のようにその恩恵は平等に配分し,焼畑からの収益はその個人的能力にまかせるのであるから,そこには独立的な人間関係の原則が貫かれている。

 山は漁民にとっても重要な意味をもっていた。漁民が海上に出たとき,山を目印として船の位置を知る方法を山あてといい,漁民にとって山は自己の存在を確認する尺度であった。この山が見えなくなってしまう沖合を山無しというように,山の見える空間が漁民の空間と認識されていたことがわかる。漁民が海に出て使う沖言葉と,猟師などが山に入って使う山言葉とが,各地で不思議な一致をみせているのは,両者の間に交渉のあったことを示している。
山岳信仰 →修験道 →山の神 →山人
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顓頊(せんぎよく)と天下の覇者の地位を争った共工が,腹だちまぎれに不周山にぶつかり,天を支える柱が折れ,地をつなぎとめる綱がきれ,そのため天は西北に傾き,地は東南に傾いたという伝説にもうかがわれるように,古代の中国人にとって,山は天と地をつなぐ存在であると考えられた。中国の西北方に存在すると想像された崑崙山(こんろんざん)も,それは大地の中心に位置する天柱であって,天帝の下都が置かれ,天上の神仙世界に向かう通路であるとされた。

 一方,現実の山は,後漢の劉煕(りゆうき)の《釈名(しやくみよう)》が〈山〉を同音の〈産〉で解釈し,〈万物を産む〉の意味だと説明しているように,鳥獣草木の動植物だけでなく,さまざまの鉱物資源を産出する所であった。たとえば《山海経(せんがいきよう)》には,天下の名山は5370,そのうち銅を産出する山は467,鉄を産出する山は3690と数えている。それら諸名山の代表は五岳,すなわち東岳の泰山(山東省),西岳の華山(陝西省),南岳の衡山(湖南省),北岳の恒山(河北省),中岳の嵩山(すうざん)(河南省)の五山であり,三公の地位になぞらえられて天子が祭りを行った。なかでも東岳泰山は,死者の霊魂が集まる冥府の所在地と考えられ,また,しばしば封禅の儀式が行われたところとして有名である。

 山を神聖視する観念は,とりわけ道教徒の間ではぐくまれた。《五岳真形図》と呼ばれる山岳図は彼らの間で重要視されたし,また練丹をはじめとする仙薬の製造は山中で行わねばならぬとされたのは,山神の加護を得るためであった。だがその一方,山神は恐ろしい存在でもあった。山それぞれに入山の日が決まっており,もし日を取り違えると山神のたたりがあると考えられた。また,あらかじめ数日間の斎戒を行ったうえ,〈入山符〉と呼ばれる護符を帯につけ,鏡を背にかけて入山しなければならなかった。山神の妖怪も鏡に姿をうつされると正体を現し,危害を加えることができないと信ぜられたからである。
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山は天に近く俗界を見下ろすところから古来神々の住居とされた。それはギリシアのオリュンポス山,パルナッソス山,ヘリコン山や北欧の神話にちなむオーディン山(ドイツ,ボン郊外)などからも知れる。またシナイ山のように神の啓示が下る場所ともされる。ゲルマン人の間で山が神聖視されたことは,9世紀にアイスランドに植民した北ゲルマン人がヘルガフェル(聖山)を崇拝しその神聖さを守るための規定をつくったことにもよくうかがえる。またゲルマン人は人が死ぬと丘や山へ行くという信仰をもっていて,王墓や祖先の墓をそこにつくった。ドイツで教会や礼拝堂がよく山の上にあるのは,キリスト教に改宗する以前の異教の礼拝地を示していることが多い。このように神聖視され崇拝の対象となった丘あるいは山は,裁判や祭祀の場となり,そこで豊饒祈願の供犠が行われた。山には王や英雄ばかりか軍勢まで死後にすんでいるという伝説が西ヨーロッパに多い。ドイツのハルツ山地にあるキュフホイザーKyffhäuserにはフリードリヒ2世(のち1世赤髭王に結びつけられる)が座ったまま待機していて祖国存亡の時がくると兵を率いて駆けつけるという(フリードリヒ伝説)。死者が山にすむという信仰から,山はまた小人や妖怪,悪魔,幽霊が寄り集まる所ともされた。このため山は思いもかけぬ宝と出会ったり,身の毛もよだつ恐怖にさらされる場所となる。ドイツのブロッケン山でワルプルギスの夜(5月1日の前夜)に魔女たちが集会を開くとされたことは有名である。魔術師は悪魔と山上で会って契約するのだともいう。

 山の中に小人やコーボルトの国があるという話は,さまざまな伝説やメルヘンに語られている。また山中に突如緑の牧場が出現したり,金銀でいっぱいの部屋があるとされる。これらは楽園や鉱山のイメージと結びついてできたものであろう。南ドイツのウンターベルクUntersbergの山中には大きなドームと黄金の祭壇が見られたというが,これは明らかにキリスト教の影響と思われる。山の中にある宝というのはたいてい乙女や白い女,黒犬や竜または蛇に守られている。人間がそこへ入るためにはふつう〈青い花〉や〈跳びはねる根〉などを必要とする。またこのような山は3年に1度とか一定の日,一定の時刻にしか開かず,幸運にも中へ入れた人は,運べるだけの宝を運ぶことが許されるのだが,決められた時間内に出なければならない。また後で宝のことを他人に口外してはならない。そうするとせっかく手にした金銀も消えたり,生命まで失うことになる。山はまた天気を占うのにも重要な役割を果たす。山に雲の笠がかかれば雨,かからなければ晴のように。復活祭のころ昔はよく雨乞い行列がドイツをはじめ多くの所でなされたものである。

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ギリシア神話では,ギリシア一の高峰オリュンポス山の頂上が神々の住む天上界とみなされているが,このように高山の頂上を神々の住処(すみか)とする観念は,多くの神話に共通してみられる。古代インドの神話でも,大地の臍に当たる世界の中心に神山メールがそびえ,その頂上にインドラが王として支配する天国スワルガがあって,神々と神霊たちがそこに都市を造って住んでいるとされており,この信仰は,須弥山(しゆみせん)の頂上にある帝釈天(たいしやくてん)を王とする三十三天の住処の〈忉利天(とうりてん)〉として,仏典に取り入れられている。古代中国における崑崙山も同様でのちにこの山は西王母(せいおうぼ)の住処とみなされるようになった。メール山の観念の影響は北方アジアのアルタイ系遊牧民族の間に広く見いだされ,モンゴル系諸族の神話では,世界の中心にあって頂上に神々の住処がある山は,メール山の別名であるスメールや,その転訛であることが明らかなスムル,スムブルなどという名で呼ばれる。ブリヤート人の神話によれば,原初はただ一面の水と,その中に1頭の巨大な亀がいるだけであったが,神がこの亀をあおむけにしてその上に大地を造ったという。4本の足の上には,それぞれ大陸が造られ,臍の上にスムブル山が造られ,その頂上に神々の住む宮殿が置かれた。この宮殿にある塔の黄金の先端が北極星であるという。タタール人の間では,この山はある地方では〈鉄の山〉と呼ばれ,別の地方では〈黄金の山〉と呼ばれて,最高神バイウルガンの天上の座所と信じられている。ヤクート人の神話では,天上にある神々の住処は石の山で,雪のように純白であるとされている。

 カルムイク人の神話によれば,世界を創造したのは4人の怪力の神で,彼らは力を合わせてスメール山をつかみ,それで大洋を,バターを攪拌するのと同じやり方で激しく攪拌して,海から太陽や月や星などを発生させた。これは明らかに,不死の飲料アムリタが製造された次第を物語った,有名なインド神話が変化した話である。インド神話によると,神々はあるときビシュヌ大神の指示に従い,悪魔たちとともに力を合わせて大洋を攪拌し,アムリタを得ることにした。彼らは,まずマンダラ山を引き抜いて海に入れ,海底で亀の王アクーパーラにそれを支えさせた。そして蛇の王バースキを綱の代りとしてそのまわりに巻きつけ,悪魔たちに蛇の頭を持たせ,神々は尻を持って,引っ張り合い,海中で山を回転させた。すると海水は雷のような轟音を発し,マンダラ山は摩擦によって燃え上がり海中と山中で多くの生物が死に,大量の樹脂と草の汁が海中に流れ込んで海水は乳に変わった。なお攪拌を続けるとバターになった。そしてこのバターの海から太陽,月,美の女神ラクシュミー,酒の女神スラー・デービー,白馬,宝珠カウストゥバなどが次々に生じ,最後にアムリタの入った純白の鉢を持った医術の神ダンバンタリが出現した。神々と悪魔たちの激しい争いの末に,アムリタは結局神々に独占されることになったというのである。

 古代中国で天下第一の名山とされた泰山は,〈人の魂を召すことをつかさどる〉とか,〈死者の魂神は泰山に帰する〉などと言われて冥府のようにみなされ,この山の神の泰山府君または東岳神は,人々の寿命を預ると信じられた。このように山中に冥界があるとみなす観念も多くの地域にみられる。インドネシアモルッカ諸島のセラム島に住むウェマーレ族の神話によれば,人間の祖先は,この島の西部にあるヌヌサクという山の頂上に生えていたバナナの熟した実から生じた。バナナの木に一つだけなっていた未熟な実から生まれたのがサテネという名の少女で,彼女は祖先たちの支配者となったが,のちに彼らの所行に立腹してニトゥと呼ばれる精霊となり,彼らのもとから去った。以来彼女は死者の山のサラフア山に住んでおり,人間は死後困難な旅を経てそこに行かねばならない。その旅の間に死者は八つの山を越えねばならず,これらの山にはそれぞれ別のニトゥが住んでいるという。

 ギリシア神話の最高神ゼウスは,クレタ島の山中の岩屋の中で生まれ,育てられた。神々の伝令役を務めるヘルメスも,アルカディアのキュレネ山中の岩屋の中で誕生している。テッサリアのペリオン山中の岩屋には,半人半馬の怪物で老賢者のケンタウロスのケイロンが住み,医術の神アスクレピオス,英雄のアキレウスやイアソンらを教育した。ギリシア神話では,山はまた,サテュロス,シレノス,パンなどの半獣神たちや,優美な女精のニンフたちの住処で,狩猟の女神アルテミスがニンフの群れを引き連れて狩りにふける場所でもあり,酒神ディオニュソスの密儀が,狂乱した信女たちにより行われる場所でもあった。このように山を神の誕生の場所とか,そこで成長しあるいは修行する者が超能力を得るとか,精霊や怪物の住処とか,神の来臨する場所などとみなす観念や信仰も,世界の各地に共通して見いだされる。
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日本歴史地名大系 「山」の解説


ならやま

[現在地名]秋田市南通亀みなみどおりかめの町・南通みなみどおりみその町・南通築地みなみどおりつきじ南通宮田みなみどおりみやたの各一部、楢山本ならやまほん町・楢山佐竹ならやまさたけ町・楢山南中ならやまみなみなか町の大部分、楢山登ならやまならやまのぼり町・楢山御島ならやまおんしま町・楢山共和ならやまきようわ町の各一部。

楢山には多くの町があるので、現在の町ごとにかつてあった町名を記す。南通亀の町には楢山本新町下ならやまもとしんまちしも丁・同虎の口新とらのくちしん町。南通みその町には楢山本新町上ならやまもとしんまちかみ丁・同本新町下丁・同本町中ほんちようなか丁・同本町下丁。南通築地には楢山本新町上丁・同上本かみほん町・同なか丁。南通宮田には楢山桝取ならやまますとり町。楢山本町には楢山本町下丁・同本横もとよこ町・同末無すえなし町・同中丁・同ざる町・同南新町上丁・同南新町下丁・同医王院前いおういんまえ町・同牛島橋通うしじまばしとおり町・同虎の口外張新とらのくちとばりしん町。楢山佐竹町には楢山上本町・同南新町上丁・同古川新町。楢山南中町には楢山登町・同虎の口外張新町・同笊町・同入川橋通登いりかわばしどおりのぼり町・同牛島橋通町・同三枚橋さんまいばし・同餌刺えさし町・同虎の口新町・同九郎兵衛殿くろべえどの町・米沢よねざわ町・十軒じつけん町。楢山登町には楢山登町・同入川橋通登町・同追廻おいまわし町。楢山御島町には楢山登町。楢山共和町には楢山牛島橋通町・同下浜したはま町。

家臣団の再編成に伴う三回目の町割は寛永六年(一六二九)実施された。それがかめの丁曲輪以南の楢山村地内である。楢山に属する地域は広く、また町の性格も足軽の町と侍町とに分けられる。

〔足軽町〕

「梅津政景日記」寛永六年一〇月一四日条に、

<資料は省略されています>

とある。同書八月二三日条に、「楢山御足軽町新町・古町共ニ見通し極申候」とある新町・古町は、新屋敷・本屋敷と照応するようだが、古町・本屋敷は明確でない。この足軽屋敷を正保(一六四四―四八)の出羽国秋田郡久保田城画図(内閣文庫蔵)と照合すると、楢山登町・楢山九郎兵衛殿町・同餌刺町・同三枚橋・同笊町・同末無町・同医王院前町・十軒町・米沢町・楢山入川橋通登町などがそれにあたる。

楢山登町は「伊頭園茶話」に幟町とし、「元と五十人組御足軽の住む町を、ノボリ町と今もいふ。そを昇町と書く人多し、幟町と書くべし、五十人ハ幟を持の勤也、先年迄は幟を背負ふて歩行く事を稽古の事あり、此一ト組は御物頭第一の先輩の組となる御先例なり」と由緒を語る。また楢山登町は藩主参勤の通路にあたり、虎の口追手三の門を登町へ出て、入川橋通登町・牛島橋通を経て牛島村に至ったという。ただし、享保(一七一六―三六)頃の御城下絵図(秋田県庁蔵)に、牛島橋通東部は「七軒町」とみえ、その西側は「秋田名蹟考」に「弘願院前」といわれたとある。

九郎兵衛殿町を菅江真澄は「笹屋日記」に「この久保田のなら山河後郷かわしりのさとの内に、九郎兵衛殿町といふ足軽町あり、あやしき名ながら、慶長の頃、大塚九郎兵衛といふ武士ひとの組子のものあまた置れたりしかば、しか云ひ伝へて、今そこにとしふる」という。


ややま

赤来町の南西、三国みくに山北方にあり、標高七三五・五メートル、「出雲国風土記」飯石郡条のいわすき(神戸川上流の赤穴川)の説明に「源は郡家の西南七十里なる箭山より出で、北に流れて須佐川に入る」と記される。須佐すさ川は来島きじま(神戸川上流の呼称)とされる。大山咋神の化身である丹塗矢がこの山から飛んできたのを玉依姫命が拾い上げたことにちなむ丹塗矢神話にゆかりの深い山である。箭山について「赤名村誌」に「初め健角見神の乙女、玉依姫命女神山に坐せる時箭山に出遊す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「山」の意味・わかりやすい解説


やま
mountains

周囲の低平な地形面から突出し、比高が大きい地表部(地殻)。どの程度の比高があれば「山」とよぶかは、地方、国、研究者などで異なる。

[有井琢磨]

分類

山には火山作用や侵食作用で形成され、孤立してそびえているものがあるが、多くの山はある範囲に集まっており、それらの全体を山地とよぶ。山地は細かく分類され、脈状に連なった山体を山脈、塊状のものは山塊、不規則に集まったものを山彙(さんい)、山脈や山塊などの集合を山系とよんでいる。一般に山といえば、陸上にある山体をさすことが普通であるが、海面下すなわち海底にある山体は、海嶺(かいれい)、海膨(かいぼう)、海底山脈、海底火山、海山などとよばれている。これらの地形の配置や成因などは、海溝、海盆などの海底地形と、陸上の大山脈、弧状列島、台地、楯状地(たてじょうち)などの大地形とともに、プレートテクトニクス説で統一的に説明されるようになった。

 山地は起伏によって、(1)低山性山地(低山性丘陵)、(2)中山性山地、(3)高山性山地に分類されることがある。この場合、(1)は標高約1000メートル以下の起伏量、(2)は1000~3000メートルの起伏量、(3)は3000メートル以上の起伏を有する山地をさしている。ヒマラヤ、天山、アルプス、ロッキー、アンデスなどの諸山脈は、著しい氷河地形と周氷河地形で侵食され、典型的な高山性山地景観を表している。飛騨(ひだ)、木曽(きそ)、赤石(あかいし)、日高などの日本の山脈の高所にも高山性山地の景観がみられる。

 山地は、谷底、谷壁、尾根、山頂、小起伏面などの侵食地形の発達状態によって、幼年山地、早壮年山地、満壮年山地、晩壮年山地、老年山地などに分類されている。低山性山地は幼年山地の特色を現し、高山性山地は満壮年山地の特色を現す場合がある。

 また、山地を形成した営力によって、(1)火山作用で形成された火山、(2)侵食作用で形成された残存山地、(3)地殻運動で形成された山地などに分類される。(1)の火山は、形態と構造から、単式火山(成層火山、楯状火山、溶岩円頂丘、溶岩尖塔(せんとう)、砕屑(さいせつ)丘、火砕流台地、溶岩台地など)と複式火山(複成火山。カルデラや単式火山の複合)などに分類される。カルデラをもつ複式火山では、二重式火山(中央火口丘と一つのカルデラ)、三重式火山(中央火口丘と二つのカルデラ)などの区別がある。また火山には、噴出位置によって陸上火山、海底火山、氷底火山の区別があり、火山体における噴出位置によって側火山(寄生火山)、中央火口丘などの区別があるほか、火山活動の仕方によっては爆発型と静穏型、火山の活動・噴出時代によっては、近年あまり用いられなくなったが活火山および休火山、死火山などの区別がある。(2)の残存山地には、湿潤気候地域の侵食で生じた残丘、乾燥地域に生じたインゼルベルクInselberg(ドイツ語)やボルンハルトBornhardt(ドイツ語)とよばれるものなどがある。これらの山は、他の類型の山に比べて小規模であり、その分布範囲も狭い。(3)の山地には、褶曲山地(しゅうきょくさんち)、曲隆山地、ドーム状山地、断層山地、傾動山地などがある。

 造山期によって山を区分する場合には、普通、中生代中期までの古期造山運動で生じた山地と、中生代末以降の新期造山運動で生じた山地とに分け、また各山地が形成された地質時代を基準にして、古生代褶曲山地、中生代褶曲山地、新生代(新期)褶曲山地などのように分けられる場合もある。

[有井琢磨]

分布

陸地にある山は、地表の限られた帯状地域に分布する傾向がある。すなわち、アルプス‐ヒマラヤ造山帯、環太平洋造山帯には世界で第一級の高峰が集中し、火山帯、地震帯などの分布とも一致している。このほか中央アジアからロシア東部にかけての地域、アフリカ北西部や南東部、北アメリカの東部などに山の集中している所がある。

[有井琢磨]

山に対するさまざまな観念

山は、平地からは視覚的に絶えず仰ぎ見る対象であり空間的な指標となっていて、人間にとっては印象深い存在である。気温や植相をはじめ、さまざまにその環境は平地とは異なっているため、山が平地の通常の生活空間とは異なる世界として人々に認識されていることは、ほぼ普遍的である。その認識は、一方では聖なる空間としての山であり、とくに農耕民にとっては山は水源であり、灌漑(かんがい)水をつかさどる神まで想定していた。しかし、他方では、環境の異質性は、平地に常住する人々にとっては不案内であり危険も伴うために、不気味で不可思議な世界とも考えられる傾向もある。

 第一の認識は山を神の世界とするものである。古代ギリシアではオリンポスをはじめ山は神々の世界であり、日本の記紀神話にも、山が神々の空間であることは「天香久山(あめのかぐやま)」などの表現からも明らかである。あるいは、山は天上の世界から神が降臨する場所と考えられており、現在でも、神社の祭礼に使われる山車は、「ダシ」または「ヤマ」とよばれ、神の降臨する依代(よりしろ)と考えられている。仏教においても須弥山(しゅみせん)、ユダヤ教ではシナイ山など、山が宗教成立の原初と結び付いていることから、山が宗教と結び付く現象は普遍的であるといえよう。

 一方、山を不気味な空間とみる結果、中世のヨーロッパでは、山は妖怪(ようかい)や妖精、魔女のすみかと考えられていたし、山岳信仰の篤(あつ)い日本でも、山間に漂泊する採集狩猟民や木挽(こびき)、木地師(きじし)などに対する偏見と結び付いて、「山人(やまひと)」「山姥(やまんば)」「山男・山女」などの伝説が数多くあった。柳田国男(やなぎたくにお)の『遠野物語』『山の人生』などに記される山人は、身体が大きく、毛髪や目が通常の日本人と異なる「異人」のイメージであり、またその能力が並はずれた超人のイメージである。天狗(てんぐ)などの信仰は山人の信仰と同一線上にある。山地をつかさどるのは「山の神」であるが、山の神とは、また、出産をつかさどる神、木挽や狩猟者など山地で働く人々の守護神、豊穣(ほうじょう)をもたらす神であるとともに、しばしば祟(たた)り神ともなり、多様で複雑な性格をもっている。このことは、日本人が山に対して複雑で矛盾する認識をもっていることの表れである。

 山が死者の行く世界であるという、いわゆる山中他界観は、日本、中国、朝鮮、ヨーロッパ、東南アジア、南アジアの各地に広くみられる。ヨーロッパには、英雄は死ぬのではなく、山の中に一時的に隠れていて、自分の民族の危急のときにはふたたびよみがえり、自らの民を救うという伝説があり、これは、山を神々の世界だとする信仰と死者の世界だとする考え方の融合だとみなすことができる。同様なことは日本でもみられる。しかも、日本の氏神ないし山の神は祖霊と同一視されることが多く、氏神―祖霊―山の神―田の神とが同一視され、このような神の多面性と変貌(へんぼう)は、村(里)と山という空間を対立的にとらえることにより、その異質の空間を移動するとともに神が変貌するという信仰は、日本人の世界観の一つの表現であるといえよう。

 インドネシアのバリ島は、島の中央に山脈がある。バリの文化には、色彩、右と左、方位、垂直的上下をはじめ、明確で複雑に発達したシンボリズムがみられる。方位は他のものと結び付いてとくに重要な象徴的意味をもっているが、山脈を境とし、島の北部では、北は宗教的に劣位の方角で、南は優位の方角である。ところが、島の南部ではその関係が逆になり、北が優位、南は劣位の方角となる。つまり、山は聖なる空間、宗教的に優位の空間という認識が、方位のシンボリックな意味を決定していることがわかる。先に述べたように、山は空間上の指標となるため、人々の世界観を形成する大きな要因となるといえよう。

 山はまた、地理的な境界線であり、山脈を挟んで山の両側の気候や風土が著しく異なることがある。また、生業形態、経済、言語(方言)、風俗習慣が異なることが多く、そのため、山の稜線(りょうせん)(尾根)や峠は、とくに境界線として特別の関心が払われることになる。日本でも各地の峠には山の神や「ヒダル神」などが祀(まつ)られたり、さまざまな伝説が伝えられるなど、特別に意味のある空間として認識されることがある。アルプスやピレネー山脈の山地で、峠にマリア像が祀られるのも同じ認識から出た信仰表現である。

 山に対する信仰は、大きく二つに分けられる。(1)特定の山、とくに、その形が秀麗であるとか、万年雪を頂いている、あるいは平地の中に一峰だけ非常に目だつ形で存在しているなどによって、山が神格化されたり、特別な聖域として信仰の対象になっている場合である。日本の富士山や岩木(いわき)山(青森県)あるいは三輪(みわ)山(奈良県)、またメキシコのポポカテペトル山などがそれである。修験道(しゅげんどう)の発展のなかでその山で修行したり、その山に登山すると特別な験(しるし)があるとされた出羽(でわ)三山(山形県)、大峰(おおみね)山(奈良県)、英彦(ひこ)山(福岡県)などがそれにあたる。(2)には、山というものがもつ異質性が信仰の対象になっていることで、山への信仰と非常によく似た内容が海や、平原に住む人々の森林に対する信仰にみいだせる。先述の、ヨーロッパ大陸で英雄が山隠れをする信仰が、イギリスではアーサー王の「島隠れ」の伝説になっている。日本の本土では山中他界観が、南西諸島には海上他界観が強い。このように、山に関する信仰は海などへの信仰との比較で考えてゆかなければならない。

[波平恵美子]

山と民俗

「倭人(わじん)は帯方(たいほう)の東南大海の中に在り、山島に依(よ)りて国邑(こくゆう)を為(な)す」と、古く3世紀の『魏志倭人伝』(ぎしわじんでん)も記すように、日本は島国であり、また山国でもあって、平地は全土の約16%にとどまり、残余はおおむね樹林に覆われた山地で占められている。そして、農耕生活とかかわりの多い集落周辺の「里山・端山(はやま)」、もっぱら山仕事に従う人々の生活の「場」としての「奥山・深山(みやま)」、さらには人跡まれな高峻(こうしゅん)の「岳」(たけ)と、人々と山界とのかかわりにもおのずから差違が生じて、それぞれに特異な民俗を生み出してきた。

 水稲栽培は日本農業の根幹であり、それはおもに山谷から流れ出る「水」に依存した。河川の水源地帯にそびえ立つ秀峰の頂に神を祀(まつ)り、その山麓(ろく)の「里宮」や谷の入口の「山口の神」と対応させる形は広く各地にみられ、またその祭神を「水分神(みくまりのかみ)」とすることが多い。大和(やまと)(奈良県)などにはとくにその形がよく残っている。「雨乞(あまご)い」の行事を山上で行う習俗も一般的で、大火をたき、大声を発して雨をよび、あるいは山上の小池や谷奥の淵(ふち)を攪乱(かくらん)するなど、その作法は多様だが、山の「神霊」に「雨の恵み」を乞う趣旨は同じであり、それを「竜神」と考えている例も多い。岳に消え残る雪のあり方で作柄の豊凶を知る「雪占(ゆきうら)」や、特定の「雪型(ゆきがた)」の出現で「農作はじめ」(種播(たねま)きなど)の適期を知る風習なども、岳と農民とのかかわりを示す民俗の例であろう。稲作の守り神は広く「田の神」とよばれているが、収穫期が過ぎると田の神は田野を去って山に登り「山の神」になる、そして翌春「農作始め」にはまた里に下って「田の神」になる、と考えられてきた。苗代(なわしろ)の「水口祭(みなくちまつり)」や秋の「稲上げ・十日夜(とおかんや)」(案山子(かかし)あげ)などの行事からは、こうした神霊の「送り迎え」の意味がよくうかがえるが、しかしこうした「田の神・山の神」の神格は漠然としか思念されておらず、別段特定の「社祠(しゃし)」も設けられず、帰り鎮まる「山」さえ決まってはいない。

 しかしこうした農民の「山の神」信仰は集落近くの「端山」に即したもので、阿武隈(あぶくま)山地の「葉山神」の祭りなどはその古意をとどめるものであろう。そこでは歳末、里近い秀峰に神霊を斎(いわ)い鎮め、来る年の豊凶を占う行事が夜を徹していまも行われている。正月の門松、小(こ)正月の若木や盆の供花を里近い山から採取することを「松迎え・盆花迎え(ぼんばなむかえ)」などとよぶ。山から神霊・精霊(しょうりょう)を迎えてくる意味で、盆前の「山道つくり」(盆道)も同じ趣旨であり、4月8日に山野の花をとってきて門口に挿す風習も似た形である。

 死者の霊魂は山に行くと信じて、「山訪ね(やまたずね)」(亡魂を山に訪ね回る)や里近い山に死者を葬る風習が古くからあったことは『万葉集』の挽歌(ばんか)などからもうかがわれ、また各地に死者の霊魂が集まる所と信じられてきた山中の霊地もいくつかある。祖霊を山に祀る「山宮」の成立もこれと関連するとみられている。ともかく人里近い「端山」はこうして日本人の霊界についての想念と深くかかわっていた。なお「山あがり・山あそび・山ごもり」などと称して、早春に村人が里近くの山に登り、「遊山(ゆさん)」に1日を過ごす風習も注目されよう。

 山奥の森林地帯は、木地師(きじし)(ろくろ師)、檜物師(ひものし)、杓子打(しゃくしうち)、木挽(こびき)、杣(そま)などの木工職人や、金掘、たたら師(製鉄)、炭焼きなどの鉱山職人たちの「生活の場」で、一般農民とはまた別趣の様相がみられた。鉱山関係職人は近世初期以後は特定地に集結して特異な集落をつくり、とくに製鉄関係者は「山内(さんない)」という同職者のムラを山中に形成して異色の協同生活を営んだ。しかしいずれも「金山(かなやま)神」の信仰中心に特異の習俗を伝来してきたことは変わらない。木工職人の類は転々と原材を求めてその居処を移し、「山中仮泊」の集落的生活を続けた。とくに「ろくろ」工具を用いる木地師は「職祖惟喬(これたか)親王」の故地と伝える近江(おうみ)国東小椋(おぐら)谷の神社を中心に特異な統制組織を築きあげ、諸国往来自在の特権を誇示してきた。いわゆる「木地屋文書」による稼業の保証である。それゆえ彼らの仲間生活にも種々特異な民俗がおのずから生じた。なお、俗界とまったく隔離した「さんか」の一団もそこにはあり、山野の蔓藤(つるふじ)・篠笹(しのささ)を材に箕(み)や籠(かご)をつくり、あるいは川魚を漁(すなど)って里人とわずかの交渉をもつにとどまった。しかし、こうした「山の流民」の跡もいまはかすかになった。

 大形野獣の乏しい日本に専業狩人(かりゅうど)のできる条件は乏しかったが、東北地方のマタギをはじめ、九州や中部山地には若干その類があった。彼らは冬春には山岳を跋渉(ばっしょう)してシカ、イノシシ、クマ、カモシカの類を追い求め、久しく山中仮泊の生活を続けるため、「山岳立入り自在・狩猟認許」の特権をもつ必要があった。それらはどれも「山神(さんじん)信仰」に由来するもので、また別趣の信仰伝承を保持して、特異な狩猟習俗を残してもきた。秀麗な姿でそびえ立つ「岳」が神霊の宿る「神体山(しんたいさん)」として崇拝された由来は久しく、各地に残る「お山がけ」の成人儀礼もその源をそこに発しているが、これを主導したのは「修験道(しゅげんどう)」であり、熊野、吉野、羽黒はじめ各地にその拠点を古くつくりだした。古い山岳信仰を基に密教教義による特異の神仏混融の宗派が生じ、庶民生活にも大きな影響を及ぼしたことは説くまでもない。明治中期「アルピニズム」が導入されるまで、日本人の「山岳登高」はまったく修験の徒の先導で行われてきたのであった。

[竹内利美]

『都城秋穂・安芸敬一編『岩波講座 地球科学12 変動する地球Ⅲ――造山運動』(1979・岩波書店)』『町田貞・貝塚爽平他編『地形学辞典』(1981・二宮書店)』『柳田国男著『山の人生』(『定本柳田国男集4』所収・1966・筑摩書房)』『大林太良編著『山民と海人』(『日本民俗文化大系5』所収・1983・小学館)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山」の意味・わかりやすい解説


やま
mountain

かなりの高度をもった地表の凸部。厳密な定義はないが,地形学的には一般に起伏量が数百m以上で,その構造が複雑なものを山と呼ぶ。起伏量が 400~500m以下の凸部は丘陵と呼ぶ。山地は起伏量,高度によって高山,中山,低山に分けられ,成因的には火山と構造山地に分類する。前者は孤立峰をつくることが多く面積は小さい。後者は大規模な山地をつくる。これは褶曲,地塊山地,曲隆山地などに大別される。

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デジタル大辞泉プラス 「山」の解説

日本のポピュラー音楽。歌は男性演歌歌手、北島三郎。1990年発売。作詞:星野哲郎、作曲:原譲二。

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世界大百科事典(旧版)内のの言及

【木】より

…日本では府県の木や花を指定して地方の性格を代表させることもあり,天然記念物になっている名木も多い。著名な大木の例として,スギでは前述の縄紋杉のほか,高知県長岡郡大豊町字杉・千葉県安房郡天津小湊町清澄の大杉や日光の杉並木など,ケヤキでは新潟県東頸城郡松之山町・山形県東根市・山梨県中巨摩郡若草町三恵・山梨県北巨摩郡須玉町根古屋神社などの大木がある。【岩槻 邦男】
[利用]
 木と人間は昔から深いかかわりをもっているが,その多くは木材の利用を通してである。…

【山賊】より

…山中において旅人などの通行人から財物を奪取する強盗,またその集団。山立(やまだち),山落(やまおとし)ともいう。…

【山論】より

…〈やまろん〉ともいう。山林原野の用益をめぐって発生する紛争。山野利用の具体的な内容は,(1)果実等の採取,(2)狩猟,(3)薪炭等の燃料,(4)建築用材,(5)薬や染料,(6)飼料,(7)肥料,(8)鉱物等地下資源,(9)灌漑用水等,実に多様であり,かつ農民の生活と生産の再生産にとって非常に重要なものであった。…

【山人】より

…山間を生活の根拠として,独自な文化の体系を形成していたと考えられる人々。《延喜式》や《万葉集》などにも記されているが,その実体は不明な点が多い。…

※「山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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