三好村(読み)みよしむら

日本歴史地名大系 「三好村」の解説

三好村
みよしむら

[現在地名]三好町三好

町域最大の三好池から鎌倉街道沿いに南北に広がる。三好上みよしかみ三好下みよししも新屋あらやの三つの切がある。三好池・まえ池一―三号・如来によらい池・かみヶ池・小新こしん池・小坂こさか池・保田ぼたヶ池・しん池・平子ひらこ池・又蔵またぞう池・熊崎くまざき池・新池(権現池)の一四の溜池がある。このうち三好池は、愛知用水三好支線工事の一環として旧まがり池が拡張されたもので、昭和三四年(一九五九)に竣工した。

三好村
みよしむら

[現在地名]上磯郡上磯町字三好・字水無みずなし

近世から明治一二年(一八七九)まで存続した村。函館平野西端の流渓りゆうけい川流域にあり、初め三谷みつや村のうち。安政三年(一八五六)三谷村の名主小西四郎右衛門らが田作を試みたが、「相応に出生米も有之候へ共、素より不馴れにて開墾雑費も不少由」という状況であったため、翌四年「御手作場農夫の内巧者の者三人、御入用を以て差加遣候処」「追々田方致開発、同年以来冥加米上納致来」とあり、文久元年(一八六一)には田反別六町九反歩・取米二石七升となった(書付并伺書類)。また渡島国谷好村取調条件(上磯町誌)によれば幕府が初めて開墾に着手し、御用畑と称した。

三好村
みよしむら

[現在地名]浪岡町樽沢

樽沢たるさわ村の北東にあった小村

平山日記」元禄三年(一六九〇)に村名があり、増館組に属し、村位は下とある。享保九年(一七二四)村絵図(野沢村誌)では先樽沢さきたるざわといい、村高五石とある。同一一年に樽沢より独立した(「村名改称并新村創立調」八木橋文庫蔵)。天保郷帳に村名がないが、天保一〇年(一八三九)には上田三畝一五歩、〇・三八五石、下田八反五畝、四・二五石とある(野沢村誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報