深大寺城跡(読み)じんだいじじようあと

日本歴史地名大系 「深大寺城跡」の解説

深大寺城跡
じんだいじじようあと

[現在地名]調布市深大寺元町二丁目

深大寺の南側舌状台地上の字城山しろやまにある城跡で、今も遺構をよく残す。天文六年(一五三七)扇谷家の上杉朝定が、同年没した河越かわごえ(現埼玉県川越市)城主である父朝興の遺志を継いで北条氏と戦うため、「深大寺とかやいへるふるきを再興」したという(河越記)。これは同年と推定される七月三日付の玉縄たまなわ(現神奈川県鎌倉市)城主北条為昌の某人宛の書状写(藩中古文書)に「河越衆神太寺へ陣を寄候由、此方へも申来候」とあることで裏付けられる。しかし上杉朝定は同月一五日、三ッ木みつぎ(現埼玉県狭山市)で北条氏綱と戦って敗れ、松山まつやま(現同県吉見町)に逃れたので、深大寺城では合戦がなかったようである。なお朝定は難波田弾正某を深大寺城の守将としたといわれるが(「風土記稿」など)、難波田弾正は朝定が逃込んだ松山城の城将とも伝えられ(「河越記」など)、深大寺城の城将としては疑わしい。

〔縄張りと遺構〕

城跡は南を武蔵野段丘崖(国分寺崖線)、東から北を崖端浸食谷に囲まれた東西に延びる半島状台地の先端に立地し、下位の立川段丘面および谷底面からの比高は約一四メートル。城域は東西約二七〇メートル、南北(台地幅)約二五〇メートル(いずれも最大で)。大まかな構造としては、この半島状台地を三本の空堀で掘切って三つの主要郭を造り、これに台地中腹の腰郭などを配したもので、この主要三郭を便宜上、東の先端部から順に第一郭・第二郭・第三郭とよんでいる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「深大寺城跡」の解説

じんだいじじょうあと【深大寺城跡】


東京都調布市深大寺元町にある戦国時代の城跡。関東平野南部に広がる武蔵野台地の南縁部、標高約50mの舌状台地に所在。3つの郭からなり、台地の東側には90m幅におよぶ湿地帯が広がり、西側にも湧水を集めた谷があり、南側は比高約15mの国分寺崖線によって画されており、南方多摩川とその対岸を望むことができる。城跡の北側の谷を挟んで古刹深大寺がある。城跡は16世紀前半、南関東を舞台に繰り広げられた小田原北条氏と扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の攻防のなか、扇谷上杉氏が築造した城跡で、小田原北条氏による改変を受けずに扇谷上杉氏系の築城技術を残す希少な城館と考えられている。関東における戦国大名と城郭の変遷を知るうえで貴重なものであることから、2007年(平成19)、東西約230m、南北約250mの範囲が国の史跡に指定された。京王電鉄京王線調布駅から京王バス「深大寺」下車、徒歩約5分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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