松山(読み)まつやま

精選版 日本国語大辞典 「松山」の意味・読み・例文・類語

まつ‐やま【松山】

[1] 〘名〙 松の木が多く茂っている山。しょうざん。
※後撰(951‐953頃)恋三・七六〇「岸もなく汐しみちなば松山を下にて浪はこさむとぞ思ふ〈伊勢〉」
[2]
[一] 愛媛県中央部の地名。県庁所在地。江戸時代は松平氏一五万石の城下町。高浜・三津浜港があり、重化学工業が盛ん。在来の伊予がすりの生産も行なわれる。道後・奥道後などの温泉がある。明治二二年(一八八九)市制。
[二] 明治四年(一八七一)七月の廃藩置県により伊予国に置かれた県。同年一一月、今治・小松・西条の各県と旧幕府領を合わせ、翌年、石鉄(せきてつ)県と改称。同六年に神山県と合体して愛媛県となる。
[三] 岡山県高梁(たかはし)市の旧称。

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デジタル大辞泉 「松山」の意味・読み・例文・類語

まつ‐やま【松山】

松の生い茂っている山。
[類語]岩山石山砂山砂丘禿げ山坊主山青山金山里山繁山芝山柴山杣山茸山茶山裸山檜山ぼた山瑞山痩せ山

まつやま【松山】[愛媛県の市]

愛媛県中部の市。瀬戸内海伊予灘に臨む。県庁所在地。化学工業が盛んで、また、伊予がすりを特産。もと松平(久松)氏の城下町。松山城道後温泉奥道後温泉がある。正岡子規高浜虚子の生地。人口51.7万(2010)。

まつやま【松山】[高梁市の旧称]

岡山県高梁たかはし市の旧称。→高梁

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改訂新版 世界大百科事典 「松山」の意味・わかりやすい解説

松山[市] (まつやま)

愛媛県中部にある県庁所在都市。2005年1月旧松山市が北条(ほうじょう)市と瀬戸内海にある中島(なかじま)町を編入して成立した。人口51万7231(2010)。

松山市北西部,瀬戸内海に浮かぶ忽那(くつな)諸島の中心で,古くは忽那島とよばれた。大小の島々からなる愛媛県温泉郡旧中島町最大の島で,面積22km2,中島町全体の人口は6340(2000)。忽那島は奈良時代には法隆寺領で,平安時代には馬牛牧が置かれ,左右馬寮に馬牛を貢進している。のちには長講堂領忽那島荘となる。中世には忽那氏が水軍を擁して活躍した。花コウ岩からなる島は浸食地形がみられ,海岸線は屈曲する。島の東部,湾入する中島港は東にある睦月(むづき)島が風防となる良港で,旧松山市三津浜や広島方面への船が発着する(広島方面は廃止)。かんきつ類の栽培が盛んで,中島ミカンとして有名。島の北部の泰山(たいのやま)(289m)には忽那氏の城跡がある。南部の姫ヶ浜は海水浴場となっており,源義経が鎧を掛けたという伝説を伝える松などがある。島の大部分は瀬戸内海国立公園に含まれる。
執筆者:

松山市北部の旧市。1958年市制。人口2万8547(2000)。市域南東部に高縄山(986m)がそびえ,立岩川が西流して斎(いつき)灘に注ぐ。《和名抄》記載の古代風早郡5郷(粟井,河野,高田,難波,那賀)はいずれも市域内に比定される。河野郷は伊予の名族で中世に水軍を擁して勢威をふるった河野氏の根拠地で,高縄山上の高縄城をはじめ各所に城砦跡が残る。南北朝初期,河野通盛の建立という善応寺や,高縄寺,高縄神社など河野氏ゆかりの社寺もある。市街中心の北条と辻は,江戸時代には今治(いまばり)道に沿う街村であった。市街地周辺の北条平野は水田地帯で,米作とタマネギ,キャベツなどの野菜栽培が盛ん。1937年に誘致された倉敷紡績の工場があり,製瓦業も行われる。市域南部粟井地区は旧松山市のベッドタウン化している。北条港から約400mの海上に浮かぶ鹿(か)島は瀬戸内海国立公園に含まれる。斎灘上の安居(あい)島は江戸末期に風待港として繁栄した。八反地にある国津比古命(くにつひこのみこと)神社は風早国造物部阿佐利の創建という伝えのある古社で,秋祭は〈火事祭〉〈半鐘祭〉の異名がある。南にある櫛玉比売命(くしたまひめのみこと)神社とともに式内社。櫛玉比売命神社の境内地は前方後円墳で,その規模から有力な首長の墳墓とみられている。西部海岸沿いにJR予讃線が通る。
執筆者:

松山市中南部の旧市で,重信川流域の松山平野北部にある県庁所在都市。1889年市制。人口47万3379(2000)。中心市街地は近世初期,加藤嘉明が北部の分離丘陵勝山(132m)に居城を建設して松山と改称して以来,その城下町として発展した。愛媛県の発足(1873)によって松山は県庁所在都市となったが,第2次大戦前は人口10万人台で,産業も伊予絣(いよがすり)が特産であったにすぎない。戦後は周辺町村の合併と,臨海部に丸善石油,大阪曹達,帝人など化学工業が立地する。1980年には40万人を超え四国最大の都市となった。県の行政・経済・文化の中心をなすばかりでなく,四国地方の行政・情報の一中心となり,総務省四国総合通信局,NHK四国本部やNTT四国支社などもある。また,松山藩時代の外港として建設された三津浜は,瀬戸内海沿岸の商港として栄えてきたが,明治初期に阪神との間の定期船が寄港するようになり,その後広島(宇品)や九州との間にも航路が開け,県の重要な貨客ターミナルとなった。1888年に全国最初の軽便鉄道(現,伊予鉄道高浜線)が松山と三津浜間に開通したが,予讃線の高松~松山間の開通は1927年で著しく立ち遅れた。松山を中心とした鉄道網は現在,伊予鉄道によって3線が開設されており,市内電車も伊予鉄道により運行されている。

 市内には松山城(史)をはじめ史跡が多く,日本最古の温泉といわれる道後温泉が中心部から市電で15分のところにあり,四国最大の温泉観光地となっている。松山城は,平野にそびえているため松山平野の交通標識ともなり,とくに夜景が美しい。戦災を受けたため,城下町の面影は城山周辺の内濠と市中心部の狭い道路,かぎ形道路などに残るにすぎない。市域周辺には四国八十八ヵ所51番札所石手寺など四国霊場の名刹が多く,遍路客は道後温泉観光客の1割にも相当する。旧松山藩は教育に熱心で,その文化的風土から正岡子規,河東碧梧桐など文人が輩出し,夏目漱石の《坊っちゃん》の舞台となった地でもある。人口の急増に伴って新しい住宅地が市の南郊農村地帯などに進出し,松山市の都市圏は拡大している。松山自動車道のインターチェンジがある。中国・四国地方で最初にジェット機が就航した松山空港は,この地方最大の乗降客を誇る空港となっている。
執筆者:

伊予国松山藩の城下町。1602年(慶長7)伊予郡正木(松前)(まさき)城主加藤嘉明が勝山に松山城とその城下町の建設を始め,翌年に移住した。次いで,蒲生氏,松平(久松)氏の城下町となった。松山城は嘉明の臣足立重信を普請奉行として起工された。勝山の山上に本丸,西麓に二の丸,その西に堀之内,三の丸が配置され,二の丸の一部と堀之内に土塁と堀をめぐらし,北麓に北ノ郭(くるわ),東麓に東ノ郭を築いた平山城で,総面積は26町余であった。城主の居館は元来二の丸邸であったが,87年(貞享4)三の丸邸に移り,さらに94年(元禄7)には西の丸邸を建てている。

 家中町は藩主邸と上級武士の屋敷のある堀之内を中心とし,城西・城南に町人町,城北に寺院が集中した。嘉明の築城当初の町人町は古町30町であった。元禄年間には,そのほかに外廻(そとまわり)町23町,城下町と郷村の境界に水呑町18町が成立していて,合計71町となり,幕末には100町に達している。町人町71町は新町組,府中町組,本町組,魚町組,松前町組,松屋町組(以上古町分),南古萱町組,藤原町組,河原町組,唐人町組,壱万町組(以上外廻町と水呑町)の11組に分かれ,それぞれの組に4~9町が含まれていた。町政は最初,府中町に町奉行所と町会所が置かれた。町奉行所は,1702年に東西町奉行所に分割され,東町奉行所は,98年(寛政10)には代官町に移された。町奉行は町方の統制・検察のため,その下に町方改役,同心小頭,同心を置いていた。町会所は町方の自治機関で,藩の監督の下に大年寄,大組頭,町年寄,組頭を置いた。大年寄は富商のうちから選任され,大組頭は大年寄を補佐する役職で,11組から2人ずつ選出された。町年寄は村方の庄屋役に相当する。また,城下町と郷村の境界の要衝には番所が設置された。松山城下の外港三津に通じる三津道には三津口,堀江・和気方面の木屋町口,道後・湯山(ゆのやま)方面の壱万口,西条方面の新立(しんだて)口,砥部(とべ)・久万(くま)方面の立花口,松前・郡中方面の土橋口の6ヵ所がそれである。1784年(天明4)の町家総数は4251軒(本家1868,借家2383)であり,職種は大工,刻煙草屋,荒物屋など122種に達している。このほかに日雇495軒(本家88,借家407),武家奉公人443軒(本家255,借家188),出商売283軒(本家97,借家186),田作り258軒(本家126,借家132)があった。このことは,水呑町には半商半農の者も居住し,城下周辺の郷村部との交易に従事していたことを示している。古町などには,唐人町の茶屋吉蔵らの豪商の存在が知られているが,城下町周辺には郷村における商品経済の発展によって,新興商人層が多く生まれた。このため城下町商人との間に対抗関係も生じたようで,1867年(慶応3)には藩が伊予絣の製造を道後村湯之町に限っている。
執筆者:

松山 (まつやま)

武蔵国比企郡の中心部(現,埼玉県東松山市)。松山本郷ともいう。鎌倉期この地域一帯には押垂(おしだれ),小代(しようだい),高坂,野本らの鎌倉御家人や小代仏師,岩殿山,光福寺,野本寺などが知られるが,松山の名は確認できない。南北朝期にこれら諸氏は滅びこの地域は足利氏領となり,諸寺領等に分与され,一部は関東管領上杉氏の重臣上田氏の所領となるか。松山本郷の初見は1409年(応永16)だが領主は未詳。戦国初期には市ノ川を隔てた対岸の比企丘陵先端(横見郡。現在の比企郡吉見町)に築かれた扇谷(おうぎがやつ)上杉方の松山城主として太田氏,上田氏,難波田氏などが見え,後期には後北条氏の領国となり直属の松山衆が駐留し,ついで上田氏が松山城主となる。その支配領域は松山領と呼ばれ,ほぼ松山城・松山本郷以西の比企郡域に及ぶ。松山本郷は松山領の経済中枢として,伝馬の宿駅,5日,10日の六斎市,新宿も立てられる町場として松山宿と呼ばれ,町代官が置かれ〈町人さばき〉にゆだねられるが,戦国末しだいに城下町化の傾向を強める。1590年(天正18)後北条氏の滅亡後は徳川領となり,松平(桜井)家広が松山城1万石を領するが,1600年(慶長5)廃城となり,松山町約2000石は幕領,旗本嶋田氏領(1641-),川越(1866年前橋に移封)松平氏領(1811-)と変遷し,幕末には陣屋も置かれた。1954年に東松山市となる。
執筆者:

松山 (まつやま)

備中国の城下町。現在の岡山県高梁(たかはし)市の中心部。町の北方にある臥牛(がぎゆう)山(478m)の山頂には中世に山城が築かれ,秋庭(あきば),上野,庄,三村の諸氏が相次いで城主となった。関ヶ原の戦後に小堀正次,政一(遠州)が備中代官として松山在番となった。1617年(元和3)池田長幸松山藩6万5000石を領し,次の藩主水谷(みずのや)氏時代(1642-93)に松山城下町がほぼ完成した。歴代藩主の居城は臥牛山頂にあり,山麓に設けられた〈御根小屋〉が藩主の居館かつ政庁である。これを中核として侍屋敷,町家(22町)が逐次成立し,寺町および愛宕山麓に20の寺社があり,藩校有終館や教諭所も江戸後期に設置された。1869年(明治2)松山を高梁と改称した。現在でも城下町の遺構は多く,備中松山城,頼久寺庭園などがある。
執筆者:

松山(鹿児島) (まつやま)

松山(宮城) (まつやま)

松山(山形) (まつやま)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「松山」の意味・わかりやすい解説

松山
まつやま

宮城県北西部,大崎市南東部の旧町域。鳴瀬川の中流南岸に位置する。 1890年町制。 2006年古川市,三本木町,鹿島台町,岩出山町,鳴子町,田尻町の1市5町と合体して大崎市となった。南部は丘陵地帯,北部は大崎平野の一部をなす平坦な地帯で,水田が広がる。室町時代に遠藤氏が山城の千石城を築き,発展した。のち伊達氏の所領となり石川氏,茂庭氏が居城,小城下町を形成した。鳴瀬川流域の肥沃な沖積地で米の生産が盛ん。金谷亀井囲横穴古墳群がある。

松山
まつやま

山形県北西部,酒田市南東部の旧町域。最上川下流部右岸に位置する。 1955年上郷村,松嶺町,内郷村が合体し松山町が成立。 2005年酒田市,八幡町,平田町と合体して酒田市となった。寛文4 (1664) 年庄内藩の支藩である松山藩の初代藩主酒井忠恒が藩の繁栄を祈念し,城地の一部である中山村 (のちの松嶺町) を松山と改称したことが地名の由来ともいわれる。以後,城下町として発展した。米作,畜産などが行なわれ,江戸期に藩士の副業として始められた,麩 (ふ) の製造は伝統産業となっている。一部は最上川県立自然公園に属する。

松山
まつやま

鹿児島県南東部,志布志市北部の旧町域。志布志湾に注ぐ菱田川の中流域にある。 1958年町制。 2006年志布志町,有明町と合体して志布志市となった。中心地区の新橋は菱田川の東岸にあり,江戸時代には島津氏の直轄地で地頭仮屋 (→ ) があった。丘陵や台地が広く,サツマイモ,タバコなどの栽培とメロン,ピーマンなどの施設園芸,畜産が行なわれる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松山」の解説

松山 しょうざん

赤松光信(あかまつ-みつのぶ)

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デジタル大辞泉プラス 「松山」の解説

松山

鹿児島県志布志市にある道の駅。県道飯野松山線に沿う。

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世界大百科事典(旧版)内の松山の言及

【高梁[市]】より

…人口2万6072(1995)。旧称を松山といい,1240年(仁治1)秋庭氏が高梁川左岸の臥牛(がぎゆう)山に築城,14世紀に高橋氏に代わったころより備中の政治中心地となった。以後,城主の交代が激しく,17世紀後半に水谷(みずのや)氏が松山城の改築,城下町の整備を行い,1744年(延享1)板倉氏が入封,幕末にいたった。…

【三津】より

…伊予国(愛媛県)和気郡,伊予灘に臨む松山城下町の外港。1603年(慶長8)加藤嘉明の時代に初めて船場を設け,船奉行を置いた。…

※「松山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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