多賀神社(読み)たがじんじゃ

精選版 日本国語大辞典 「多賀神社」の意味・読み・例文・類語

たが‐じんじゃ【多賀神社】

[一] 福岡県直方市直方にある神社。旧県社。祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと)、仲哀天皇ほか二柱。養老三年(七一九)多治比真人が再建した古社。はじめ多賀大神、日若宮とよばれたが、天平八年(七三六妙見大明神と改称。元祿四年(一六九一)現名となる。

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日本歴史地名大系 「多賀神社」の解説

多賀神社
たがじんじや

[現在地名]直方市直方

彦山川との合流点付近の遠賀おんが川中流左岸、御館おたて山の北部に位置する。旧県社で、祭神は伊弉諾尊伊弉冉尊。古くは現在地の南方妙見みようけん山にあって妙見社とよばれていた。妙見宮・日若ひわか宮・多賀宮ともいう。境内社に須賀すが神社(祇園社)天満宮などがある。創祀の時期は不明だが、元和九年(一六二三)の東蓮寺藩(直方藩)創設に伴い、寛永三年(一六二六)に東蓮寺(延宝三年直方と改名)がその陣屋町(城下町)になると、当社(妙見社)は町の産土神として藩主以下の崇敬を受け、天和年間(一六八一―八四)には東蓮寺藩初代藩主黒田高政によって神殿が修築されている(続風土記附録)

多賀神社
たがじんじや

[現在地名]八王子市元本郷町四丁目

南浅みなみあさ川が北流する東岸の微高地に境内を構える。祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊。旧郷社。江戸期には多賀明神社と称した。社伝によれば、天慶元年(九三八)武蔵介に任ぜられた源経基が近江国の多賀たが大社(現滋賀県多賀町)より勧請したという。文応元年(一二六〇)北条時頼が巡行の折この地で病に倒れ、当社に古鏡を奉納して祈願したところ治癒したことから、社領七反歩を寄進し、祈願所としたと伝える。

多賀神社
たがじんじや

[現在地名]弘前市桜庭 外山

桜庭さくらば集落東端の小山の中腹にあり、道端の鳥居から杉の森の中に急な石段が続いて本殿に至る。祭神は伊弉諾尊。清水きよみず観音堂が神仏分離により、明治三年(一八七〇)多賀神社となる。

相殿に八幡宮・熊野宮・稲荷神三座・船寄神などがあり、八幡宮を除いた各神は神仏分離に際して、隣村から移された。清水観音堂に安置されていた千手観音像は、神仏分離の際に弘前最勝さいしよう院に移納されたというが(新撰陸奥国誌)、現在境内の大石下の湧水付近に置かれ、信仰を集めている。

多賀神社
たがじんじや

[現在地名]鹿児島市清水町

多賀山上、東郷平八郎銅像の後方に位置する。祭神は伊弉冉尊・天照大神。旧郷社。天正七年(一五七九)島津義久が山伏の鷲頭不動院に命じ、近江国多賀大社(現滋賀県多賀町)を勧請したのに始まるという。以後鷲頭氏が代々祭祀を務め、鹿児島藩主の崇敬も厚かったという(三国名勝図会)。「上井覚兼日記」天正一一年三月二二日条に「此日より川田駿河守も御多賀ニ参籠にて」とあり、当社のことと推測される。

多賀神社
たがじんじや

[現在地名]雫石町御明神 御明神

りゆう川南岸に位置し、祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命、旧村社。「御領分社堂」に「御明神社、俗別当左五兵衛、本地多賀大明神、旧号近江明神」とあり、往古よりの鎮守で、佐々木盛綱の家臣木村太郎四郎が本国近江国を立退く際に、多賀明神(現滋賀県犬上郡多賀町)の神剣を持参。当地の平渡ひらわたりで水難にあい神剣も失った。百姓左近の家に身を寄せ娘と縁組をしたところ、屋敷内で神剣を発見、多賀明神を勧請し、「近江多賀大明神之分神故近江明神」とも称した。

多賀神社
たがじんじや

[現在地名]仙台市富沢 多賀社前

東北本線長町ながまち駅の西約三キロ、新笊しんざる川の左岸に鎮座。「延喜式」神名帳の名取郡二座のうちにみえる「多加タカノ神社」とされる。祭神は伊弉諾尊で、旧村社。祭礼は旧暦四月一日。社伝によれば日本武尊の東征の折の勧請で、また源義家が当社で武運長久を祈ったと伝える。

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事典・日本の観光資源 「多賀神社」の解説

多賀神社

(宮城県仙台市太白区)
杜の都 わがまち緑の名所100選指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の多賀神社の言及

【日若踊】より

…民俗芸能。風流踊で福岡県直方(のおがた)市大字直方の多賀神社(日若宮)の6月1日の祭りに行われる。素朴な〈日若踊音頭〉と優美な〈日若踊本手〉からなる。…

※「多賀神社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」