浜田(市)(読み)はまだ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「浜田(市)」の意味・わかりやすい解説

浜田(市)
はまだ

島根県西部、石見(いわみ)地方の中核都市。日本海沿岸屈指の水産・港湾都市。1940年(昭和15)浜田町と石見、長浜美川(みかわ)、周布(すふ)の4村が合併して市制施行。1955年(昭和30)大麻村、1969年国府(こくふ)町を編入。2005年(平成17)金城(かなぎ)、旭(あさひ)、三隅(みすみ)の3町および弥栄村(やさかむら)と合併。地名は1020年(寛仁4)中納言(ちゅうなごん)常方が浜に田を開いたことによると伝える。浜田自動車道浜田インターチェンジ、山陰道(江津道路)浜田東インターチェンジなどがあり、JR山陰本線と国道9号が海岸沿いを走り、国道186号が広島県へ通じる。鎌倉時代から大陸貿易が行われたが、1957年に浜田港が重要港湾に指定され、港の整備が進み、市勢は飛躍的に発展した。長浜の浜田商港には竹材のほか北洋材、南洋材の輸入がみられ周布川河口には木工団地が建設された。また沿岸や日本海は好漁場で、浜田浦の漁港はアジ、サバなどの水揚げが多い。市の工業も水産加工業が盛んで、缶詰は北アメリカ、東南アジアに輸出される。浜田港には1999年に5万トンバースが建設され、韓国釜山(プサン)港との間で国際定期コンテナ船が就航している。東部の山村地帯ではクリ、シイタケ栽培や林業が行われているが、過疎化が進行している。

 中心市街は1619年(元和5)古田氏5万石の城下町となり、のち松平氏が入る。近世には植林製鉄、石州瓦(せきしゅうがわら)製造、養蚕などが盛んであった。港湾都市としての出発は明治中期からで、特別輸出港に指定され神戸税関支所が設けられた。昭和初年には浜田浦が漁港として整備され、出雲(いずも)船団の巾着網(きんちゃくあみ)漁業の拠点となった。一方、1898年(明治31)歩兵第二一連隊が置かれ軍都ともなった。1921年(大正10)山陰線浜田駅が開業、市街は東に発展し、現在、駅前の都市再開発が進み、住宅は丘陵地にも及んでいる。北東部の下府(しもこう)地区は砂丘でのブドウ栽培が盛ん。木工団地での合板の生産や、石州瓦の産出も多い。三隅地区に伝わる石州半紙石見半紙)の製造技術は国の重要無形文化財に指定されている。石州半紙は2009年(平成21)にユネスコ(国連教育科学文化機関)の無形文化遺産に登録され、2014年には、岐阜県美濃(みの)市の「本美濃紙」、埼玉県小川町、東秩父(ひがしちちぶ)村の「細川紙(ほそかわし)」とともに、「和紙―日本の手漉和紙技術」としてあらためて無形文化遺産に登録された。国分(こくぶ)地区には石見国分寺跡、下府廃寺塔跡(ともに国史跡)があり、隆起海床の石見畳ヶ浦は国の天然記念物に指定されている。このほか国史跡に周布古墳がある。また、大佐(おおさ)山、雲月(うんげつ)山は西中国山地国定公園に含まれている。1993年に島根県立国際短期大学が開学、2000年には島根県立大学が設置された(島根県立国際短大は2001年閉学)。面積690.68平方キロメートル、人口5万4592(2020)。

[野本晃史]

『『浜田市誌』全2巻(1973・浜田市)』


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