日本大百科全書(ニッポニカ) 「法典論争」の意味・わかりやすい解説
法典論争
ほうてんろんそう
法典の制定ないしは施行の可否をめぐる論争で、一般的には、19世紀初頭のドイツおよび19世紀末の日本における法典論争をさす。日本では、1890年(明治23)公布の民法・商法両法典の実施可否をめぐって、権力内部はもとより、延期派、断行派に国論を二分して激しい論争が繰り広げられた。この法典論争は、個別に「商法典論争」あるいは「民法典論争」ともよばれ、また論争の焦点が民法人事編に置かれたこともあって、一般に「民法典論争」と通称されることもある。論争のおきた背景としては、国会開設前に諸法典の編纂(へんさん)を完了しようとする明治政府の意図と、条約改正交渉との密接な関連から、民法・商法両法典の編纂が拙速的に行われ、草案の審議が十分に尽くされなかったこと、さらにまた、両法典公布の前年には、プロイセン憲法の影響を受けた保守的性格をもつ大日本帝国憲法が制定され、これが法典編纂の基準として働くようになったことがあげられる。1889年、帝国大学法科大学の卒業生で組織されたイギリス法学派の法学士会が、「法典編纂ニ関スル意見書」を発表して法典編纂の慎重論を唱えると、これをきっかけにイギリス法学派とフランス法学派との間で激しい論戦が引き起こされた。草案の起草が外国人ボアソナードの手になったことなどから、日本の民俗慣習への顧慮が不十分であること、条文が冗長でかつ各法典間に統一を欠く点があることなどが論争の焦点となったが、とりわけ民法人事編は、日本固有の醇風(じゅんぷう)美俗たる家族制度を破壊するとして問題とされた。結局、1892年の第三帝国議会で、民法・商法両法典は、その修正を行うため1896年12月31日まで施行を延期することになり、論争は延期派の勝利に終わった。
[吉井蒼生夫]
ドイツの法典論争
19世紀初頭、ドイツ統一運動の高揚を契機に、全国的な統一法典を制定すべきか否かをめぐって、チボーとサビニーとの間に交わされた論争をさす。1813年ナポレオンがライプツィヒで大敗し、ドイツがその制圧から解放されると、民族的自由の獲得を目ざすドイツ統一運動が盛り上がった。当時ハイデルベルク大学教授だったチボーは、敗走するフランス軍をみて触発され、同年6月『ドイツのための一般民法典の必要について』Über die Notwendigkeit eines allgemeinen bürgerlichen Rechts für Deutschlandと題する小冊子を発表した。そのなかで彼は、領邦国家に分裂しているドイツを統一するためには政治的旧制が復活する前に、まずオーストリア民法典、フランス民法典を範として、私法、刑法、訴訟法(彼はこれら全体を民法とよぶ)について、ドイツ全体が一つの法で規律されるような統一法典をつくる必要があることを主張した。このような主張はすでに18世紀からみられたが、当時の政治情況にあって、彼の情熱的な論文は、学者や政治家に大きな感動を与えた。
これに対し、ベルリン大学教授だったサビニーは、同年『立法および法律学に対する現代の使命について』Vom Beruf unserer Zeit für Gesetzgebung und Rechtswissenschaftと題する小冊子を発表して反論を行った。これが法典論争の始まりである。この論文は、歴史法学派の綱領論文ともなり、その後大きな影響を与えた。サビニーによれば、法は言語、風俗、制度と同じように民族に特有のものであり、民族の共同の意識(のちに民族精神Volksgeistとしている)によって自然に生成したものであって、チボーのいうように普遍的原理に基づいて、しかもわずかの期間でつくれるものではない。法はこのように民族の共同の意識が現れたものであるから価値があるので、そこには無意識のうちに統一が内在している。このことは、法のなかに指導原理(正確な概念で組み立てられた体系)のあることを意味する。民族の共同の意識と民族の確信は法律家の認識にゆだねられ、法律家を通じて初めて法律が発生するのであり、1人の立法者によってではない。
そこで、現在の法律学の使命は、チボーのいうような自然法的な理性に基づく法典の編纂ではなく、過去の法とくにローマ法(ユスティニアヌスの法)を研究して、そこに指導原理を発見することにある。このような指導原理を法典として体系化できれば将来起こる事態に対処できることになるが、法律学の現状はまだ未熟であってそのような法典編纂の段階に至っていない。プロイセン一般ラント法はまだ参照に値するが、オーストリア民法典やフランス民法典は役にたたない。しかも法典に用いられるべき法律用語に欠けており、このような状態で法典をつくれば、実際問題としてプロイセン、オーストリア以外のドイツの法を統一したにすぎない結果となってしまう。以上が反論の要旨である。
本来この論争は当時の政治情勢のなかで論じられたものであったが、その内実においては以上のように学問的論争であった。その後、ウィーン会議においてドイツは、自由な国民国家への道が閉ざされ、チボーの法典編纂論はほとんど顧みられることがなかった。他方、サビニーの理論は大きな影響を与え、やがてパンデクテン法学とゲルマン法学を生み出すことになった。1848年に至って、ふたたびドイツ統一運動が高揚し、そこでチボーの理論が取り上げられたが、国民民主主義革命――国民的法典によって全ドイツの国家市民を結集するという主張はついに実現することはなかった。チボーが革命的倫理的行為者であったといえるのに対し、サビニーは現状を維持する冷静な観察者であった。将来、学問文化(法律学)が国民的法典をつくることができるまで成熟するであろうというサビニーの予言は、その後のドイツの歴史のなかで実証されることとなった。
[佐藤篤士]
『長場正利訳「ザヴィニー、ティボー法典論議」(『早稲田法学』別冊第一巻所収・1930)』▽『星野通編著『民法典論争資料集』(1969・日本評論社)』▽『中村菊男著『新版近代日本の法的形成』(1963・有信堂高文社)』▽『平野義太郎著『日本資本主義社会と法律 日本資本主義研究Ⅱ』(1971・法政大学出版局)』▽『中村吉三郎著『法典論争』(小林直樹・水本浩編『現代日本の法思想』所収・1976・有斐閣)』