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憲法学者。穂積陳重の弟として,宇和島藩士の家に生まれた。井上毅などに嘱望され,1883年東大卒業の翌年憲法学研究のためにドイツに留学,ラーバントに師事。89年2月,帰国早々東大教授に任命され,以後貴族院勅選議員,宮中顧問官などを兼ねた。その学説は天皇主権の絶対性を説く憲法理論,主権の所在を国体とし,主権発現の態様を政体として,日本を君主国体立憲政体であるとする日本国家論,また,天皇は民族の家長であるとする家族国家論などからなり,中等学校教科書の執筆者として,その説は国民教育上の正統学説となった。しかしその権力主義的・前近代的性格は諸方面から批判をうけ,また政党内閣否認論,委任立法違憲論など非現実的なところもあって,学界や実務を支配するには至らなかった。やがて美濃部達吉より全面的批判を受け,後継者の上杉慎吉が理論的情熱に欠けることもあってその学説は大正期には学界から顧みられなくなった。明治天皇の大葬に参列して風邪をこじらせ死亡。ボアソナードの起草した民法草案の施行に激しく反対し,《民法出デテ忠孝亡ブ》と題する論文を書いたことでも有名。
執筆者:長尾 龍一
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わが国で近代を代表する法学者。法学者で枢密院議長を務めた穂積陳重(のぶしげ)の弟で、四国宇和島藩の国学者の家に生まれる。藩校明倫館に学び、上京して1883年(明治16)東京大学法学部を卒業し、その翌年からドイツに留学してシュルツェ、ラーバント教授らの教えを受けた。帰国後、1889年に帝国大学教授となり、憲法学の講座を担当したが、ドイツ留学中にラーバントから受けた君主絶対主義の立場にたつ憲法論を唱え、台頭しつつあった民権学派の憲法理論に対して強硬な反対論を展開した。旧民法の施行にあたっては「民法出デテ忠孝亡(ほろ)ブ」という論文を発表(1891)して、施行延期派の旗手となり、民法に家長権尊重を盛り込ませることに大きな役割を果たした。その間、貴族院議員、宮中顧問官などの重職を歴任した。主著『憲法提要』上下(1910)。
[池田政章]
(長尾龍一)
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1860.2.28~1912.10.5
明治期の憲法学者。陳重(のぶしげ)の弟。伊予国生れ。東大卒。ドイツ留学をへて,1889年(明治22)帝国大学教授となり,憲法講座を担当。民法典論争に際し「民法出テゝ忠孝亡フ」を著し反対した。以後法典調査会査定委員・貴族院勅選議員・宮中顧問官などを歴任。学説が権力的・概念的であったため,有賀長雄(あるがながお)・美濃部達吉などの批判を浴びた。
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