武田氏館跡(読み)たけだしやかたあと

日本歴史地名大系 「武田氏館跡」の解説

武田氏館跡
たけだしやかたあと

[現在地名]甲府市古府中町・屋形三丁目

市北部のあい川扇状地開析部に造営された戦国大名武田氏の居館跡。戦国大名の居館として有数の規模を誇る。国指定史跡。日影ひかげ山南麓の出崎、躑躅つつじが崎に位置することから躑躅が崎つつじがさき館ともよばれた。永正一六年(一五一九)武田信虎は東方笛吹川沿いの川田かわだから館を移した。「高白斎記」は、八月一五日に鍬立式を行って建設に着手し、翌一六日には信虎の見分が行われ、わずか四ヵ月後の一二月二〇日に信虎が移り住んだと記録している。「勝山記」同年条には「上様モ極月ニ移リ御座候、御ミタイ様モ極月御移」、翌一七年条には「三月府中ニテ以上意万部ノ法ケ経ヲヨマセ玉フ」とあり、同年三月にはすでに館が完成していた。以後、天正九年(一五八一)一二月二四日に信虎の孫勝頼が新府城(現韮崎市)に移転するまで(天正九年一二月二四日「武田勝頼書状」守矢家文書、「理慶尼記」)六〇有余年にわたって領国支配の中心として使用された。

館はひがし曲輪・なか曲輪を堀と土塁で囲んだ二町(約二一八メートル)四方の主郭部を中心に、西曲輪・味噌みそ曲輪・御隠居ごいんきよ曲輪・稲荷いなり曲輪・梅翁ばいおう曲輪などで構成された。主郭部西側に位置する西曲輪の規模は東西一町・南北二町、同北側の御隠居曲輪は一町四方と規格性に富み、整然とした郭配置をみせる。館南方に広がる城下町に付設された五本の南北基幹街路の間隔もおおむね二町で、館の主郭部がその機軸線上に位置することから、館と城下町が一体的に設計されたものと推測される。

武田氏館跡
たけだしやかたあと

[現在地名]八代町北 大庭

甲斐国の守護武田氏の館跡。現在は清道せいどう院の境内となっている。「甲斐国志」には、武田信守の館跡と記載されるが、年代的に矛盾があり、武田信成の館跡説が通説となっている。大庭おおにわとよばれる東西約八〇メートル・南北約一〇六メートルの清道院境内を主郭とし、周囲に幅約一〇メートルの土塁をめぐらしている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「武田氏館跡」の解説

たけだしやかたあと【武田氏館跡】


山梨県甲府市古府中町にある居館跡。別名、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)。甲府盆地中央に近い、南流する相川の扇状地上に立地し、現在は跡地に1919年(大正8)建立の武田神社がある。東西を藤川と相川に囲まれ、背後に詰めの城である要害山(ようがいさん)を配置する。館の規模は周囲の堀を含めて東西約200m、南北約190mに及ぶ。外堀、内堀、空堀に囲まれた3重構造で、中世式の城館であるが、東曲輪(くるわ)・中曲輪からなる主郭部、西曲輪、味噌曲輪などで構成され、甲斐武田氏の城郭の特徴がよく表れた西曲輪枡形虎口や空堀、馬出しなどの防御施設を配し、東日本でも最大級の戦国期居館である。陶磁器なども出土しており、神社付近には往時の場所のままと伝えられる井戸が2ヵ所ある。戦国時代の1519年(永正16)に、武田信虎が築いた甲斐武田氏の本拠地で、居館と家臣団屋敷地や城下町が一体となっている。室町幕府の将軍足利義晴とも親しかったという信虎が、京風の町並みを意識したとされる城下町は、館を中心に約220m間隔で5本の南北基幹街路が貫く。1581年(天正9)に勝頼が新府城に移転するまで、信虎・信玄・勝頼3代の約60年にわたって甲斐国の政治・経済の中心地である府中として機能し、後に城下町としての甲府や、近代以降の甲府市の原型となった。史料価値の高い中世の城館跡として、1938年(昭和13)に国の史跡に指定された。JR中央本線ほか甲府駅から山梨交通バス「武田神社」下車、徒歩すぐ。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報