楊慎(読み)ようしん(英語表記)Yáng Shèn

改訂新版 世界大百科事典 「楊慎」の意味・わかりやすい解説

楊慎 (ようしん)
Yáng Shèn
生没年:1488-1559

中国,明の著述家。字は用修,升庵と号す。四川新都の人。宰相楊廷和の子。正徳6年(1511)の進士第一。翰林院編修・経筵講官となったが,大礼の議において世宗嘉靖帝)にさからったため,雲南に流され,生涯許されなかった。この政治的失脚を活用して,彼はあらゆる書物を読破し,著述の多さは明代随一といわれるが,好んで異を唱え,奇をてらうため,その博大な学問は,創見に富むにもかかわらず,ずさんで精緻に欠ける点も併せもっている。著に《楊升庵集》《丹鉛総録》など,数百巻がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「楊慎」の意味・わかりやすい解説

楊慎
ようしん
(1488―1559)

中国、明(みん)代中期の文学者。新都(四川(しせん)省)の人。字(あざな)は用修。1511年(正徳6)科挙(かきょ)に首席及第し、翰林修撰(かんりんしゅうせん)を授けられた。1524年桂萼(けいがく)(?―1531)、張璁(ちょうそう)(1475―1539)らが起用されたとき、同志36人と反対意見を天子に具申して月俸を停止され、さらに同志と意見を具申したので、平民に落とされて雲南に流された。以後は詩酒を楽しみ、放逸な所行で韜晦(とうかい)したが、経学、詩文とも卓出していた。博学の評判が高く、著書に『丹鉛総録』『升菴集(しょうあんしゅう)』などがある。

[横田輝俊 2016年2月17日]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「楊慎」の意味・わかりやすい解説

楊慎
ようしん
Yang Shen

[生]弘治1(1488)
[没]嘉靖38(1559)
中国,明の学者,文学者。新都 (四川省) の人。字,用修。号,升庵。正徳6 (1511) 年進士に及第,翰林修撰となった。のち世宗嘉靖帝が即位したとき,その亡父処遇について帝に反対したため激怒を買い,平民として雲南永昌衛に流され,約 35年を配所で過して没した。非常な神童で,12歳のときの『古戦場文』は人を驚かし,詩は李東陽に認められた。博学で雲南にあって奔放な生活をおくりながら多くの著述を残した。その研究は詩曲,小説を含めはなはだ多方面にわたるが,特に雲南に関する見聞,研究は貴重な資料となっている。著は『升庵全集』 (81巻) に収められる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「楊慎」の解説

楊慎 ようしん

?-? 明(みん)(中国)の画僧
隠元隆琦(いんげん-りゅうき)にしたがって承応(じょうおう)3年(1654)来日し,長崎にすんだ。人物画にひいでた。名は別に遵真。

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世界大百科事典(旧版)内の楊慎の言及

【古謡諺】より

…採集の範囲は,経書,史書から小説や雑記にまで及ぶ。《詩経》,特にその国風部分が民間からの採詩を基礎にでき上がっているという伝説にもとづいて古典籍の中から古い民間歌謡を集成しようとする仕事は,すでに明の楊慎らによって行われていたが,この杜文瀾の仕事が最も網羅的である。【小南 一郎】。…

※「楊慎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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