李東陽(読み)りとうよう(英語表記)Lǐ Dōng yáng

改訂新版 世界大百科事典 「李東陽」の意味・わかりやすい解説

李東陽 (りとうよう)
Lǐ Dōng yáng
生没年:1447-1516

中国,明の文人。字は之,西涯と号す。湖南茶陵の出身。天順8年(1464)の進士,累遷して礼部尚書,文淵閣大学士となり,没後に太師を贈られ,文正と諡(おくりな)された。成化・弘治正徳(1465-1521)の3朝に仕え,文壇重鎮として文名をはせた。1484年(成化20)から9回にわたって,科挙の試験官として,李夢陽,何景明らの〈前七子〉(七子)を抜擢して,沈滞した文壇に活力を与えたことは特筆される。《懐麓堂集》100巻には,〈三楊〉(楊士奇楊栄楊溥)の〈台閣体〉にあきたらず,新しい文学を作ろうとした跡がみられ,《懐麓堂詩話》には〈格調説〉(古文辞)の先駆とみられる意見がある。古楽府の〈花将軍歌〉は明の建国に功のあった花雲を詠じた叙事詩で,読者の胸をうつものがある。《擬古楽府》1巻は日本でも翻刻されている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「李東陽」の意味・わかりやすい解説

李東陽
りとうよう
(1447―1516)

中国、明(みん)中期の文人、政治家。字(あざな)は之(ひんし)。号は西涯(せいがい)。原籍は茶陵(さりょう)(湖南省)であるが、北京(ペキン)の人。1464年の進士。要職を歴任して吏部尚書に至った。詩では楊士奇(ようしき)ら三楊の台閣(だいかく)体を受け継ぎ、李夢陽(りぼうよう)らの前七子(ぜんしちし)に先だって復古を目ざし、約100年に及ぶ沈滞を破った。しかし時の宰相でありながら宦官(かんがん)劉瑾(りゅうきん)に媚(こ)びたため声価を落とし、その功績はいまなお正当に認められていないが、当時、在野の沈周(しんしゅう)と並んで最大の文人であった。詩は格調を尊びつつも、平明でユーモアに富み、ことに歴史故事を歌った古楽府(こがふ)の連作は有名。著に『懐麓堂(かいろくどう)集』と、復古派の理論を啓発した『懐麓堂詩話』がある。伝は『明史』巻181に記される。

[福本雅一]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「李東陽」の意味・わかりやすい解説

李東陽
りとうよう
Li Dong-yang

[生]正統12(1447)
[没]正徳11(1516)
中国,明の文学者。茶陵 (湖南省) の人。字,賓之。号,西涯。神童として知られ,6歳で天子の前で尚書を講じたという。天順8 (1464) 年進士に及第,累進して文淵閣大学士から礼部尚書,吏部尚書にいたった。当時朝廷内で幅をきかせていた台閣派の詩文の平板さを破り,唐宋八大家の文,盛唐の詩を理想とすべきであるという格調説を唱え,文壇の主流となって茶陵派と呼ばれた。のち権臣劉瑾 (りゅうきん) の横暴に対して妥協したため声価を落し,門人の李夢陽 (りぼうよう) ,何景明にも去られたが,沈滞していた文壇に生気を与え,続く古文辞派の運動の先駆者的役割を果した。歴代の史実を詠じた『擬古楽府 (がふ) 』 100編が有名。詩文は『懐麓堂集』 (100巻) に収められ,ほかに『懐麓堂詩話』 (1巻) がある。

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世界大百科事典(旧版)内の李東陽の言及

【大明会典】より

…一つは《正徳会典》(180巻)と略称する。初め1502年(弘治15)に徐溥らが勅を受けて編纂したが,孝宗崩御のために頒布されず,09年(正徳4)李東陽らがそれを修訂して頒布された。文武各役所の職掌について《諸司職掌》以下,《皇明祖訓》《御製大誥》《大明令》《大明集礼》《洪武礼制》《礼儀定式》《稽古定制》《孝慈録》《教民榜文》《大明律》《軍法定律》《憲綱》等の書を引用して詳述している。…

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