栃窪村(読み)とちくぼむら

日本歴史地名大系 「栃窪村」の解説

栃窪村
とちくぼむら

[現在地名]鹿沼市栃窪・仁神堂町にがみどうまち

千渡せんど山の西麓から北麓に位置し、武子たけし川が村の西部を南流。同川の西に糠塚ぬかつか山がある。村の中央には栃窪溜がある。東部をあき川が流れる。西は武子村、東は河内かわち田野たの(現宇都宮市)、南は千渡村。栃久保とも記された。日光山往古社領六十六郷の一つに栃窪郷がある(日光山常行三昧堂新造大過去帳)。室町時代のものと推定される年未詳一〇月二〇日の法印行専奉書(輪王寺文書)に栃窪郷とあり、同郷の年貢は日光山常行じようぎよう堂に納入されていた。永禄四年(一五六一)と推定される一一月二九日の大門資忠書状(佐八文書)によれば、翌五年から栃窪より「大神宮御最花」一〇〇疋が伊勢神宮に寄進されることになった。

栃窪村
とちくぼむら

[現在地名]鹿島町栃窪

東流する真野まの川流域に位置し、北岸を奥州西街道が通る。天正年中(一五七三―九二)宇多うだ郡の所属となり、のち行方なめかた郡に復したという(奥相志)。枝郷として、明暦二年(一六五六)に東の御山おやま村、元禄一〇年(一六九七)に西の上栃窪村を分村したとされるが(相馬藩政史)、「奥相志」は両村の分村を寛文年間(一六六一―七三)のこととする。天保郷帳には栃久保村と記され、「古者 栃窪村・上栃窪村・御山村・皆野原新田四ケ村」と注記される。

栃窪村
とちくぼむら

[現在地名]引佐町栃窪

神宮寺じんぐうじ川の中流右岸に位置し、南は小野おの(現細江町)、東は黒淵くろぶち村。集落は同川の段丘上に形成されている。中世は井伊氏一族の奥山氏の所領(龍潭寺文書)。元和元年(一六一五)には高一七二石余、田六町一反余・畑三町三反余(同文書)正保郷帳では田方一〇九石余・畑方六二石余、旗本金指近藤領、ほかに岩間いわま(現廃寺)領六石がある。領主は変化なく幕末に至る。奥山おくやま村方面の三河との国境をなす山地東側一帯の水が流れ出る神宮寺川はしばしば満水となり、栃窪大堰もよく落ちた。そのため元禄六年(一六九三)・享保一三年(一七二八)の改修を経て、延享二年(一七四五)には金指かなさし陣屋の山守が奉行となって領内村々から一千五五人を動員し石堰に改修した(「宮田日記」藤原家文書)

栃窪村
とちくぼむら

[現在地名]秦野市栃窪

秦野盆地の西南部、淘綾ゆるぎ丘陵北端に位置し、北にむろ川が流れる。足柄上あしがらかみ郡に属し、北・西は大住おおすみ渋沢しぶさわ村、南は足柄上郡松本まつもと(現中井町)高尾たかお(現大井町)、東は大住郡平沢ひらさわ村に接する。中央を小田原道が南北に通る。正保国絵図に村名がみえる。

近世は天正一八年(一五九〇)小田原藩領、慶長一九年(一六一四)幕府直轄領、貞享三年(一六八六)小田原藩領、元禄一一年(一六九八)荻野山中藩領、宝永五年(一七〇八)幕府直轄領、文政一二年(一八二九)小田原藩領に復した。享保一〇年(一七二五)の村明細帳(秦野市史二)によると田二反余、畑・屋敷一九町八反余。

栃窪村
とちくぼむら

[現在地名]中之条町栃窪

赤坂あかさか村・大塚おおつか村の北にある。もとは大塚村に含まれ、天和元年(一六八一)の郷村品々記録(小林文書)に大塚村の内として村名がみえ高一九七石余。貞享二年(一六八五)の沼田藩領再検地控では高三〇石余、元禄郷帳では幕府領大道だいどう峠に近く三国街道脇往還の道筋にあたるため、もくばし関の渡(現渋川市)が不通となったときには須川すかわ宿(現利根郡新治村)助郷役をつとめていた(天保七年「三国脇往還継場道法御定賃銭書上帳」小淵文書)。天明三年(一七八三)浅間焼けでは「砂大造ニ降リ候事前後ニ覚無御座候」という被害で(「浅間焼被害状況届」高橋文書)、浅間山噴火記録(片山文書)によると同年の上納年貢は皆無であった。

栃窪村
とちくぼむら

[現在地名]白鷹町栃窪

高岡たかおか村の北西山間に位置し、北は村山郡今平こんぺい(現西村山郡朝日町)、南西は黒鴨くろがも村。藩境に位置するため本口留番所が置かれ、扶持方二人により通行人・諸荷物を取締った。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高九三石余、免二ツ三分、家数三八(うち役家五・肝煎一)・人数一六四、役木として漆・桑・青苧をあげる。蒲生氏高目録帳では村柄は下。文化二年(一八〇五)の下長井村々大概帳(上杉家文書)に馬次とみえるように問屋も置かれ、慶安元年(一六四八)には一里半南方の鮎貝あゆかいまで本荷一文・空尻五分、同じく北方一里半の大舟木おおふなぎ(現朝日町)まで本荷一文(「答書写」青木文書)

栃窪村
とちくぼむら

[現在地名]見附市栃窪町

椿沢つばきざわ村から南東の道を約二五キロ東山丘陵の中に入る。同じく田井たい村から東へ桑探くわさがし峠を越えて南に折れると当村に至る。当村から東へ一五キロでつち(現栃尾市)へ至る。文明年間(一四六九―八七)の長尾・飯沼氏等知行検地帳(上杉家文書)高波たかなみ保の「栃窪」がみえる。永禄三年(一五六〇)一〇月吉日の貫屋家兼売券案(来田文書)に「とちくほ」とみえる。元和六年(一六二〇)の長岡藩知行目録に高五六石九斗余。

栃窪村
とちくぼむら

[現在地名]柿崎町栃窪

北東は米山よねやま川を挟んで小萱おがや村、南西は雁海がんかい村と境を接する。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「佐野伝三分柿崎分栃窪村 下」とみえ、本納一石三斗・縄高五石九斗五升三合とあり、家数・人数は不分明

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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