松塚村(読み)まつづかむら

日本歴史地名大系 「松塚村」の解説

松塚村
まつづかむら

[現在地名]須賀川市松塚

大桑原おおくわはら村の南、釈迦堂しやかどう川支流いな川両岸の氾濫原と丘陵に立地。文安五年(一四四八)須賀川城に入った二階堂為氏が大桑原ほかとともに当地を浜尾尾張守に与えたという(奥陽仙道表鑑)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に松塚とみえ、高五一二石余、山田久三ほか二名の知行地。江戸時代の領主の変遷はたておか村と同じ。白河古領村郷高帳では高五一二石余。寛文一三年(一六七三)の検地で高七二一石余(福島県史)。元禄一〇年(一六九七)越後新発田藩領となると領内では上・下二ヵ村(各々高三六〇石余)に分村したが、公的には以後も一村で扱われた(寛政一二年「岩瀬郡内郷村高帳」同書)

松塚村
まつづかむら

[現在地名]大和高田市大字松塚

土庫どんご東方に位置する。東部曾我川西部葛城川がそれぞれ北流する。松塚は古墳の所在地。寛文年間(一六六一―七三)の松塚村古図によると「王塚」を図示している。欠年の金峯山免田田数注進状(天理図書館保井文庫)に「注進 金峯山免田田数事 廿三条二里 三坪、六反大 松塚屋敷、九坪、一反半 松塚殿作 十郎」とあり、応永二七年(一四二〇)の一乗院坊人用銭・給分支配状(天理図書館保井文庫)には「松塚 平田荘吉光名」とある。

松塚村
まつづかむら

[現在地名]飯舘村松塚

草野くさの村の枝郷。関根せきね村の東に位置し、村内を新田にいだ川が流れる。村の中央の山頂には八坂神社を祀り、氏子胡瓜を作ることを禁じられていた。その東麓の字稲葉山いなばやまからは土師器の甑が発見されている。村名の由来は八幡太郎義家が遠矢をした的塚にちなむといわれ、その射た矢が婦人の小褄に当たったため小妻こづまの字名が残る。明暦二年(一六五六)草野村から分村(相馬藩政史)。天保郷帳では草野村に「古者 草野村・松塚村・深谷村・伊丹沢村四ケ村」と注記される。

松塚村
まつつかむら

[現在地名]桜村松塚

桜川沿いの水田地帯に位置し、南西は土器屋かわらけや村。中世は田中たなか庄に属したといわれる。元禄一二年(一六九九)土浦藩領となり(土浦市史)元禄郷帳の村高は四〇六石余。「県方集覧」(酒井泉氏蔵)に「家数四拾四軒、人数弐百四拾九人、外僧七人、馬拾八疋」とある。

松塚村
まつづかむら

[現在地名]上越市松塚

飯田いいだ村の北にあり、東方を飯田川西方じゆう川が流れる。当村は古くは飯田新田と称し(元禄郷帳)正保国絵図にその名がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報