松井庄(読み)まついのしよう

日本歴史地名大系 「松井庄」の解説

松井庄
まついのしよう

加美かみ町南部(奥荒田・的場・寺内・西脇・山野部・熊野部・多田・棚釜・岩座神)および現なか町北西部(門前・安楽田・東山・田野口)に比定される庄園で、古代の多可郡荒田あらた(和名抄)が庄園化したものと考えられる。松井庄左方は杉原すぎはら川東岸(現中町域)、右方は同西岸(現加美町域)である。安楽田あらたには「松井」の地名がある。的場まとば荒田神社は播磨国二宮と伝えられ、氏子は江戸期以後は右方の奥荒田おくあらた的場寺内てらうち西脇にしわき四ヵ村だが、もとは松井庄全域の惣社であったと考えられる。

建久二年(一一九一)一〇月日の長講堂領目録(島田文書)に松井庄がみえ、元三雑事の御簾五間・御座四枚などと月別の課役(門兵士・牛三頭用途能米など)が記され、ほかに毎月二七日に廻御菜(魚介・野菜など)が定められていた。長講堂領は後白河法皇が六条殿(跡地は現京都市下京区)内に設けた長講堂の所領。

松井庄
まついのしよう

能義のき町・西松井町一帯にあった庄園。奈良時代に意宇おう野城のき(出雲国風土記)のあった所で、平安時代に野城駅を核に新しく成立した能義のぎ郡野城郷(和名抄)の一部が、在地の有力者による開発と寄進などを通じて新しく庄園として成立したものであろう。文永八年(一二七一)一一月日の杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳の第五番に「松井庄廿二丁三反小相馬四郎」とみえる。東国下総の御家人相馬氏は新補地頭と思われる。元応二年(一三二〇)六月二六日の関東下知状(小野家文書)によると、大野おおの(現松江市)をめぐる相論について、相馬八郎次郎胤時と片山平三入道観知が請文を提出しており、この相馬胤時は松井庄地頭の一族と考えられる。

松井庄
まついのしよう

興福寺大乗院領荘園。三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)に「宇多郡」として「八十松井庄三丁三反応永十一年松井徳賀丸ニ為御恩被仰付也」とある。所在は荘号から現大字松井に比定される。松井氏は在地武士と考えられ、同庄を給分として与えられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報