松ヶ枝町(読み)まつがえちよう

日本歴史地名大系 「松ヶ枝町」の解説

松ヶ枝町
まつがえちよう

[現在地名]北区松ヶ枝町

明治六年(一八七三)成立した町。江戸時代は大坂城に付属する鉄砲奉行同心の一部と弓奉行同心二〇名の屋敷地で(大阪市史)、東は天満てんま空心くうしん町、西は同河内かわち町の筋、北は天満東寺てんまひがしてら町、南は天満郷の境界である天満溝之側てんまみぞのかわ筋に囲まれた区域であった。明暦元年(一六五五)大坂三郷町絵図では東から小泉久弥・長尾庄左衛門・大久保勘九郎・飯河藤次郎の各同心屋敷が記される。貞享四年(一六八七)新撰増補大坂大絵図では東部に鉄砲奉行同心、西部に弓奉行同心・野畑とある。明和年間(一七六四―七二)には両同心屋敷近辺に新家が建ち、東寺町前新建家とよばれ(同書)、文化三年(一八〇六)増修改正摂州大阪地図では両同心屋敷の間が新家とされ、弓奉行同心の西にも二ヵ所の新家が記される。

松ヶ枝町
まつがえちよう

中京区新京極通三条下ル東入

誓願せいがん寺の東に位置し、町のほぼ中央を南北に裏寺町うらてらまち通が通る。

近世には、誓願寺境内であったが、明治六年(一八七三)町地となり、「松ヶ枝町」と名付けられた。

町内には、長仙ちようせん院・大善だいぜん寺・頂源ちようげん院があり、いずれも誓願寺の塔頭であった(→誓願寺。「坊目誌」によれば、長仙院は徳誉善智(寛永一四年没)の開基、明治一六年旧塔頭真如しんによ庵・見松けんしよう院を合併。

松ヶ枝町
まつがえちよう

[現在地名]金沢高岡町たかおかまち武蔵町むさしまち

上堤かみつつみ町・下堤町の西、高岡町の北に位置し、南北・東西数条の通りからなる。江戸時代は武家地で、明治四年(一八七一)の町立て。北はさかえ町、西は同町と高岡町下藪しもやぶうちの通りに続き、外総構堀に接する。下堤町中間より当町に通じる小路の一つは深美ふかみ小路と称し、小路名は享保町絵図にみえる深見八郎兵衛宅前に至ることによる。

松ヶ枝町
まつがえちよう

[現在地名]根室市本町ほんちよう花咲町はなさきちよう・松ヶ枝町・弥栄町やさかえちよう幸町さいわいちよう

明治九年(一八七六)から同三三年まで存続した根室郡の町。明治九年七月、本町梅ヶ枝うめがえ町の南、花咲町の東に接する地に新たに松ヶ枝町一―三丁目が設置された。花咲町と並行して根室港から南に延びる通りに沿う(「事業報告」第一編)。同一七年根室松ヶ枝町一―三丁目と改称。同一八年には四―一一丁目が設置された(市町村改称字名並ニ旧字名調)当地には近世末に置かれた仙台藩勤番所があったが、明治二年一〇月ここに開拓判官松本十郎らを派遣し、開拓使根室出張所とした。同四年出張開拓使庁、同五年開拓使根室支庁と改称。

松ヶ枝町
まつがえちよう

[現在地名]小樽市松ヶ枝一―二丁目

大正四年(一九一五)の小樽区の町名改正に伴い花園はなぞの町・入船いりふね町・奥沢おくさわ村より分立、松ヶ枝町が成立。やなぎ町など東からの遊廓地を囲む町域。大正九年の世帯数一一・人口三七(小樽市史)。昭和六年(一九三一)松ヶ枝―天神てんじん町間の道路(神松線)が開通(同市史)、同一四年には最上もがみ町―松ヶ枝町間の道路(松ヶ枝山手線)が開かれた(緑・最上両町史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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