東岩瀬宿(読み)ひがしいわせしゆく

日本歴史地名大系 「東岩瀬宿」の解説

東岩瀬宿
ひがしいわせしゆく

[現在地名]富山市東岩瀬町など

神通川河口右岸に位置する加賀藩主往還路(北陸街道)宿駅浜往来富山城下と結ぶ岩瀬街道、新庄新しんじようしん町と結ぶ往来などとも交わり、また東岩瀬湊を控え、陸上交通と海上交通を結ぶ要衝であった。東岩瀬宿方ひがしいわせしゆくかたを中心に、東岩瀬浦方ひがしいわせうらかた東岩瀬田地方ひがしいわせでんじがたの三者で宿役を勤めた。やや上流千原崎ちわらざき渡を渡り射水いみず下村しもむら宿(現下村)まで二里三四町、松並木の浜往来を東へ向かい常願寺川を越えて滑川なめりかわ宿まで二里二五町(「里程」川合家文書)、南の富山城下までは二里(正保四年「越中道記」)。元和二年(一六一六)東岩瀬村は神通川右岸で地続きであった草島くさじま村・千原崎村とともに五軒に一軒の伝馬役を負担した(「三ヶ国宿伝馬役定書」加賀藩史料)。寛永二〇年(一六四三)・正保元年(一六四四)には伝馬役銀一六匁を納めた(「東岩瀬村伝馬役銀之事」三辺家文書)。明暦二年(一六五六)東岩瀬村は田地方と宿方・浦方に区分され、宿駅機能は宿方・浦方が主体となり、伝馬役三九匁を納めた(村御印留)。万治元年(一六五八)氾濫で神通川は二股川となり、草島村・千原崎村は多くの田畑を失うとともに、加賀藩における交通の拠点としての地位を下げ、寛文二年(一六六二)加賀藩の交通制度整備の折、三村共同であった伝馬機能はすべて東岩瀬に集約され、改めて東岩瀬が新宿に指定された(東岩瀬史料)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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