本薬師寺跡(読み)もとやくしじあと

日本歴史地名大系 「本薬師寺跡」の解説

本薬師寺跡
もとやくしじあと

[現在地名]橿原市城殿町

平城京の薬師寺前身寺院で、藤原宮大極殿跡の南西天香久あめのかぐ山の真西に位置していたが、現在はわずかに堂・庫裏を残すのみ。藤原京右京八条三坊にあたる。国指定特別史跡。天武天皇が皇后の病のために発願した寺で、「日本書紀」天武天皇九年(六八〇)一一月一二日条に「皇后、体不予したまふ。則ち皇后の為に誓願ひて、初めて薬師寺を興つ」とみえ、薬師寺東塔銘には「維清原宮馭宇天皇(天武天皇)、即位八年庚辰之歳、建子之月、以中宮不、創此伽藍」とある。しかし天武朝にはあまり造営工事も進まなかったらしい(「元亨釈書」「僧綱補任」など)。「日本書紀」持統天皇二年(六八八)正月八日条に「無遮大会かぎりなきをがみを薬師寺に設く」、同一一年七月二九日条には「公卿百寮、仏の眼開しまつる会を薬師寺に設く」とあり、「続日本紀」文武天皇二年(六九八)一〇月四日条に「以薬師寺構作略了、詔衆僧令住其寺」とあるので、この頃には薬師寺の構作がほぼ終わったが、大宝元年(七〇一)には波多牟胡閇・許曾倍陽麻呂が造薬師寺司に任命されており(「続日本紀」同年六月一一日条)、なお整備工事が継続されたらしい。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「本薬師寺跡」の解説

もとやくしじあと【本薬師寺跡】


奈良県橿原市城殿町にある寺院跡。現在、西の京にある薬師寺の前身にあたり、寺跡の背景には畝傍(うねび)山が望める。天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気回復を祈願して680年(天武天皇9)に建立に着手したが、完成前に崩御したため、持統天皇がその遺志を継いで完成させた。当時は金堂東西に2つの塔があった。平城遷都にともない本薬師寺と呼ばれるようになった。遷都によって寺は伽藍(がらん)ともども西の京へ移築されたといわれていたが、現在では別々に造られたという説が有力である。1921年(大正10)に国の史跡に、1952年(昭和27)には特別史跡に指定された。現在、寺には小堂が建っているだけだが、前庭にあたる跡地には金堂の礎石や東西両塔の土壇、塔の心礎などが残されている。藤原宮が完成した同じ時代に建設されたため、藤原薬師寺とも呼ばれている。近畿日本鉄道橿原線畝傍御陵前駅から徒歩約9分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報