本因坊秀哉(読み)ホンインボウシュウサイ

デジタル大辞泉 「本因坊秀哉」の意味・読み・例文・類語

ほんいんぼう‐しゅうさい〔ホンインバウシウサイ〕【本因坊秀哉】

[1874~1940]囲碁棋士。東京の生まれ。本名、田村保寿。19世本因坊秀栄門下に入り、21世本因坊を継いで秀哉と号した。本因坊の名跡を開放して実力時代への門を開き、最後世襲制囲碁名人となった。→本因坊

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改訂新版 世界大百科事典 「本因坊秀哉」の意味・わかりやすい解説

本因坊秀哉 (ほんいんぼうしゅうさい)
生没年:1874-1940(明治7-昭和15)

囲碁名人。本名田村保寿。東京出身。初め方円社の塾生,後に本因坊秀栄(1852-1907)の門下となる。秀栄没後,後継者をめぐって雁金かりがね)準一(1879-1959)と争わなければならなかったが,秀栄の実弟秀元の援助により,1908年,21世本因坊,14年終身制最後の名人となる。力戦型の碁風で,従来の布石重視の風潮に転機をもたらした。大正期の碁界は秀哉の指導のもとに展開した。23年中央棋院が設立されると,本因坊家の免状発行権を譲渡,免状発行権はさらに翌24年に設立された日本棋院に引き継がれた。26年棋正社との院社対抗戦では雁金準一七段と開幕戦を打って勝ち,また33年呉清源五段との記念対局は新布石勃興時代の先駆けをなし,碁界に新風を吹き込んだ。やがて毎日新聞社が新時代の選手権戦を企画するに及び,秀哉はそれによって本因坊の名跡を継承させようと考えて本因坊戦の創設(1939)を承認し,38年みずから引退碁(相手は木谷実七段)を打った。ここに世襲制の本因坊家は完全に終焉しゆうえん)した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「本因坊秀哉」の意味・わかりやすい解説

本因坊秀哉
ほんいんぼうしゅうさい

[生]1874. 東京
[没]1940
囲碁名人。本名田村保寿。初め方円社の塾生で2段 (当時,方円社は級位制で第8級) までなったが,1891年脱社して段 (級) 位を剥奪され,無段となった。翌年本因坊秀栄の門に入って「飛びつき4段」を許された。 1905年7段に昇段,師の域に近づいた頃から疎遠となり,07年2月の秀栄没後,未亡人まき子の支持する雁金準一と本因坊継承問題を起した。隠居秀元 (16世および 20世本因坊) の支持により,1年だけ 20世を再襲,21世本因坊秀哉となったのは 08年2月。その秋8段に進み,14年名人に就位。 23年方円社と合同して中央棋院を創立した際免状発行権を譲渡し,それが翌年創立の日本棋院に受継がれた。 36年,毎日新聞社 (当時は東京日日新聞,大阪毎日新聞両社) ,日本棋院とはかって本因坊家の世襲制を廃し,新時代の選手権者に名跡を継承させることに踏切った。それが本因坊戦である。 38年予選を勝抜いた木谷実7段との対局が引退碁。

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百科事典マイペディア 「本因坊秀哉」の意味・わかりやすい解説

本因坊秀哉【ほんいんぼうしゅうさい】

囲碁棋士。東京生れ。本名田村保寿。1885年―1891年方円社に属したが,1892年金玉均の紹介で本因坊秀栄の門下生となり,1905年7段。1908年本因坊21世を襲名,秀哉と号し,1914年名人。1924年分裂していた棋界日本棋院に統一した。坊門時代における石井千治との対局,本因坊就任前後の雁金準一との争碁有名。1938年本因坊を引退し,世襲制の本因坊家は終焉した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「本因坊秀哉」の解説

本因坊秀哉 ほんいんぼう-しゅうさい

1874-1940 明治-昭和時代前期の囲碁棋士。
明治7年6月24日生まれ。本因坊秀栄に入門。明治41年本因坊21世をつぎ,大正3年世襲制最後の名人となる。13年日本棋院の創立に参加。昭和12年本因坊の名跡(みょうせき)委託を決意,13年木谷実を相手に名人引退碁を打った。昭和15年1月18日死去。67歳。東京出身。本名は田村保寿。

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世界大百科事典(旧版)内の本因坊秀哉の言及

【本因坊】より

…18世秀甫(しゆうほ)(村瀬秀甫)は奔放な碁風で知られるが,1879年方円社を創設し,権門の庇護を離れた碁を,日本中津々浦々まで広めた功績で高く評価される。21世秀哉(しゆうさい)(本因坊秀哉)は最後の世襲本因坊で,その引退をもって本因坊の名跡は,本因坊位継承全日本専門棋士選手権戦(通称本因坊戦)のタイトルとして生まれかわった。第1期の本因坊戦が開始されたのは1939年のことで,関山利一六段が就任した。…

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