本名村(読み)ほんなむら

日本歴史地名大系 「本名村」の解説

本名村
ほんなむら

[現在地名]金山町本名

西谷にしたに村の西部只見ただみ川対岸に位置し、村内を伊北いほう街道が通る。船渡場を二ヵ所有し、「新編会津風土記」に「一は村より未の方大塩組越河村の通路にあり、一は村より辰の方西谷村の通路にあり、共に只見川を渡す、伊北郷より府下に通る路なり」とある。また村の北一里一〇町の山中には端村三条さんじようがあり、高田たかだ(現会津高田町)伊佐須美いさすみ神社の縁起にまつわる御神楽みかぐら(一三八六・五メートル)を経て越後国蒲原かんばら室谷むろや(現新潟県上川村)に至る間道も開かれていた。

本名村
ほんなむら

[現在地名]会津坂下町束松たばねまつ

西は束松峠に連なる山地に接する山間にあり、越後街道を挟んだ北側は天屋てんや村、東は片門かたかど村。かつては現在地より南約五町の入本名いりほんなに住していたが、寛永年間(一六二四―四四)この道が越後街道の本街道となるにつれ、道沿いに移住したと伝える。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高一〇五石余。野沢組に属し、文化一五年(一八一八)の村日記では高二七一石余。化政期の家数三二(新編会津風土記)。明治四年(一八七一)の家数二六(寺一)・人数一六四(人員録)

本名村
ほんみようむら

[現在地名]吉田町本名

吉田郷の西部に位置し、北は西佐多浦にしさたうら村、南は鹿児島近在の比志島ひしじま村・おかはら(現鹿児島市)中世は吉田院のうち。建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)に吉田院内の三名の一つとして「本名十丁三反一丈三寸正宮御供所清弘領」とある。大隅正八幡宮(現鹿児島神宮)御供所職をもっていた息長姓吉田氏の嫡流四代清弘の所領で、石築地役一丈三寸が課されている。慶長六年(一六〇一)二月二六日の伊集院抱節・山田理安連署知行目録(旧記雑録)によると、安楽大炊助への加増六〇石のうち三五石余を白山しらやま屋敷で与えている。寛永六年(一六二九)には島津下野守への一万二千三五六石余の知行宛行のうちに当村の四八三石余があてられている(「喜入忠続・伊勢貞昌連署知行目録」島津尚久系図)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報