神功皇后(読み)じんぐうこうごう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「神功皇后」の意味・わかりやすい解説

神功皇后
じんぐうこうごう

記紀や『風土記(ふどき)』などにみえる伝承上の人物。『日本書紀』によると、仲哀(ちゅうあい)天皇皇后で、名を気長足姫尊(息長足姫命)(おきながたらしひめのみこと)という。父は開化(かいか)天皇の曽孫(そうそん)、気長宿禰王(おきながのすくねのおおきみ)、母は葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)。『古事記』では、父は開化天皇の玄孫で、母は新羅(しらぎ)国の王子天之日矛(あめのひぼこ)の5世の孫にあたるという。仲哀天皇熊襲(くまそ)を討つため筑紫(つくし)の橿日宮(かしひのみや)(香椎宮(かしいぐう)。福岡市東区香椎町に所在)にきたとき、天照大神(あまてらすおおみかみ)と住吉(すみよし)三神が皇后にのりうつって託宣を下したが、仲哀はこれを信じなかったために急死した。そこで神功は、臨月であったにもかかわらず新羅を討ち、帰国後、筑紫の宇美(うみ)で後の応神(おうじん)天皇を出産。さらに大和(やまと)に帰還して麛坂(かごさか)・忍熊(おしくま)2王の反乱を鎮定し、応神が即位するまで69年間も政治をとっていたという。『書紀』にはさらに多くの日朝関係記事が記され、なかには干支(かんし)二運(120年)を下げれば史実と考えられるものもある。また4か所にわたって『魏志(ぎし)』や『晋書(しんじょ)起居注』が引用され、編者が神功を倭(わ)の女王(卑弥呼(ひみこ))に比定していたことは疑いない。

 この伝説は、古くから朝廷に伝えられていた朝鮮半島侵略の物語に、各地で語られていた母子神信仰に基づく民間伝承的なオホタラシヒメの伝承や、京都府綴喜(つづき)郡に居住した古代豪族息長(おきなが)氏の伝承などが加わり、さらに7~8世紀に古代天皇制の思想によって潤色を受け、最終的に記紀に定着したと考えられる。

[塚口義信]

『塚口義信著『神功皇后伝説の研究』(1980・創元社)』

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朝日日本歴史人物事典 「神功皇后」の解説

神功皇后

記紀にみえる仲哀天皇の皇后。名は気長足姫尊。『古事記』には息長帯比売命と記される。神と交感する能力を持つ巫女的な女性。夫の仲哀天皇が神の託宣を信じず祟りにあって頓死したあとを受け,託宣に従って新羅を攻める。このとき大小の魚が寄り集まって,船の進行を助けたという。新羅の王は皇后の軍団の勢いに圧倒されて戦わずして降る。高句麗,百済もこれに倣う。この軍旅に際し,皇后は臨月を迎えていたが,石をもって産気の鎮めとし,筑紫へ凱旋してから御子(のちの応神天皇)を生む。このときの鎮めの石は,鎮懐石の名で筑紫の地に実在を伝えられており,8世紀初頭の歌人山上憶良の歌に,具体的な寸法と共に人々が盛んに参っていた様子が描かれている。皇后は出産ののち,反逆の企てなども粉砕し,大和で御子を皇太子に立てて後見に当たる。記紀の記載上,皇后は皇位に就かなかったことになっているが,天皇に匹敵する存在であり,『日本書紀』でも天皇に準じた扱いをしている。この皇后と御子の組み合わせは,やがて母子神信仰に習合し,八幡宮の祭神として名を連ねて現在に至っている。<参考文献>直木孝次郎『日本古代の氏族と天皇』

(神田典城)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「神功皇后」の意味・わかりやすい解説

神功皇后
じんぐうこうごう

古代,仲哀天皇の皇后とされる人。名はオキナガタラシヒメノミコト。父は開化天皇曾孫,母は新羅から但馬に来住したというアメノヒボコ(天之日矛)の玄孫タカヌカヒメ。いわゆる三韓征伐物語の中心人物。「記紀」によると仲哀天皇が熊襲を討つため九州に赴き筑紫の橿日宮(→香椎宮)で急死すると,同行の皇后は妊娠中にもかかわらず,武内宿禰とはかり新羅に遠征,新羅降伏後筑紫に帰ってホンダワケノミコト(応神天皇)を産んだという。この遠征の結果,百済高句麗も日本に帰服した。皇后は大和に戻ってほかの王らを討ち,応神天皇を皇太子に立てて,約 70年間皇太子の摂政としてみずから政治をとったといわれる。また『日本書紀』は皇后を暗に『魏志倭人伝』にみえる女王卑弥呼に擬している。陵墓は奈良県奈良市の狭城盾列池上陵(さきのたたなみのいけのへのみささぎ)。

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百科事典マイペディア 「神功皇后」の意味・わかりやすい解説

神功皇后【じんぐうこうごう】

仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后。和風諡号(しごう)は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)。記紀によると三韓出兵物語の中心人物で,仲哀天皇の急死後,妊娠中でありながら武内宿禰(たけうちのすくね)とともに朝鮮半島に出陣し新羅(しらぎ)を討ち,また百済(くだら)・高句麗(こうくり)をも帰服させ,帰国後応神天皇を産んだという。
→関連項目忍熊皇子河原巻物神崎天手長男神社仲哀天皇馬蹄石

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「神功皇后」の解説

神功皇后 じんぐうこうごう

記・紀にみえる仲哀天皇の皇后。
父は気長宿禰(おきながのすくね)王。「日本書紀」によれば,仲哀天皇8年天皇の熊襲(くまそ)征討にしたがい筑紫(つくし)におもむいたが,天皇が急死。翌年みずから兵をひきいて新羅(しらぎ)を征し,百済(くだら),高句麗(こうくり)を帰服させた。帰国後,応神天皇を出産。国政を69年間とり,100歳で没したという。名は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)。

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旺文社日本史事典 三訂版 「神功皇后」の解説

神功皇后
じんぐうこうごう

4世紀後半ころの伝説的人物で,仲哀 (ちゆうあい) 天皇の皇后
記紀によると,熊襲 (くまそ) 征討の途中,神の怒りにふれて死んだ仲哀天皇のあとをうけ,のちの応神天皇を懐妊したまま新羅 (しらぎ) に遠征しこれを征服(三韓征討)。帰国後,応神天皇を生み,その即位までの69年間摂政 (せつしよう) として武内宿禰 (たけしうちのすくね) とともに政治を行ったという。

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防府市歴史用語集 「神功皇后」の解説

神功皇后

 『日本書紀[にほんしょき]』に出てくる仲哀[ちゅうあい]天皇の妻で、神のおつげに背いて亡くなった仲哀天皇の後をついで熊襲[くまそ]を征伐しました。さらに新羅[しらぎ]征伐も行い、朝鮮半島を従わせたと書かれています。

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精選版 日本国語大辞典 「神功皇后」の意味・読み・例文・類語

じんぐう‐こうごう ‥クヮウゴウ【神功皇后】

記紀の仲哀皇后、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)に対する漢風諡号。仲哀天皇西征に同行、神罰によって天皇が陣没した後、神託を得て新羅を討ったという。応神天皇の母。

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デジタル大辞泉 「神功皇后」の意味・読み・例文・類語

じんぐう‐こうごう〔‐クワウゴウ〕【神功皇后】

記紀に伝えられる仲哀天皇の皇后。名は気長足姫尊おきながたらしひめのみこと。仲哀天皇の没後、懐妊のまま朝鮮半島に遠征し、帰国後に応神天皇を出産したといわれる。

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「神功皇后」の解説

神功皇后
じんぐうこうごう

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
初演
元禄8.1(大坂・嵐三右衛門座)

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世界大百科事典 第2版 「神功皇后」の意味・わかりやすい解説

じんぐうこうごう【神功皇后】

仲哀天皇の妃で記紀の新羅遠征説話の主人公,また応神天皇の母とされる。別名,気長足姫(おきながたらしひめ)尊(記では息長帯比売命)。
[神功皇后伝説の大要]
 熊襲(くまそ)を撃つため筑紫に赴いた仲哀天皇は,海のかなたの宝の国を授けようという神託を得る。この神言は武内宿禰(たけうちのすくね)が請い,神がかりした神功皇后を通じて告げられた。その宝の国とは先進文明に輝く朝鮮半島諸国のことであったが,これを信じなかった仲哀天皇は急死する。

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世界大百科事典内の神功皇后の言及

【安曇磯良】より

…阿度部(あとべの)磯良ともいう。《太平記》巻三十九によれば,神功皇后が三韓に征するさい天神地祇を常陸の鹿島に招き軍評定を行ったが,ひとり海底に住む阿度部磯良のみが不参であった。諸神が神遊(かみあそび)の庭をもうけ〈風俗・催馬楽(さいばら)〉を歌わせたところ,磯良は感にたえかねて現れ出たが,容姿は貝や虫のとりつく醜い様を示しており,それを恥じて召請に応じなかったのだという。…

【鏡山】より

…標高284m。山名は,神功皇后が朝鮮出兵の戦勝を祈念して鏡を山頂に埋めたことによると伝える。また任那に渡る大伴狭手彦(おおとものさでひこ)の軍船に向かって,土地の長者の娘松浦佐用姫(まつらさよひめ)がこの山から領巾(ひれ)を振って別離を悲しんだという伝説から,領巾振(ひれふり)山の別名があり,《万葉集》などに歌われている。…

【香椎宮】より

…福岡市に鎮座。祭神は神功皇后,または仲哀天皇といわれ諸説あるが,現在は仲哀天皇,神功皇后,相殿に応神天皇,住吉大神をまつる。旧官幣大社。…

【称制】より

…古来,称制の事例は,清寧天皇の没後に億計(おけ)(仁賢天皇),弘計(おけ)(顕宗天皇)両皇子が互いに辞譲して皇位につかなかった間,姉の飯豊青(いいとよあお)皇女が政務を執ったのを初例とし,ついで斉明天皇の没後,皇太子中大兄皇子が3年間称制した例,天武天皇の没後,皇后鸕野讃良(うののさらら)媛(持統天皇)が同じく3年間政務を執った例の3例がある。ところで《日本書紀》によると,仲哀天皇没後,応神天皇のまだ即位しない間,神功皇后が政務を執ったのを摂政とするが,摂政は天皇の在位しているときに,皇族等が天皇に代わって政治を執るのをいうことからすると,神功皇后の統治形態は摂政よりも称制に当たる。また《続日本紀》によると,文武天皇の没後,元明天皇が践祚に先立つ2ヵ月間に万機を摂行したのも,称制といえよう。…

【新羅】より

…しかし,これらの事情が687年ごろから変化し,日本が上位に立つ形で国交を行おうとして新羅と対立しはじめた。日本側はこの要求を出す根拠として,神功皇后新羅出兵の伝承を造作,強調した。新羅は733年に唐の渤海遠征を助け,一挙に対唐関係を好転させ,735年には懸案の領土問題が解決した。…

※「神功皇后」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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