木田村(読み)きだむら

日本歴史地名大系 「木田村」の解説

木田村
きだむら

[現在地名]加治木町木田・新生町しんせいまち錦江町きんこうまち

南流する網掛あみかけ川とその支流宇曾木うそのき川の西岸に位置し、網掛川対岸は段土たんど村、宇曾木川対岸は高井田たかいだ村、西を別府べつぷ川が限る。加治木町は段土村から当村に及ぶ。東西に大口筋が通る。中世の上木田村(上木田名)・下木田村(下木田名)が合併して成立したとみられる。文禄四年(一五九五)六月二九日の豊臣秀吉知行方目録(島津家文書)によると、秀吉の蔵入分の加治木のうちに、「木田村」二千三五五石余がみえる。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳では高二千三五六石余。「三州御治世要覧」によると、延享(一七四四―四八)頃の高三千七四〇石余。旧高旧領取調帳では四千二四三石余。加治木古今雑撰(加治木町立郷土館蔵)によると、万治二年(一六五九)から寛文三年に獺貫うそぬき隧道二〇間ができ、この結果八八七石余の増高があり、門数七一、田一三五町九反余・畑三二町六反余、籾九千二〇〇俵余・大豆五〇七俵余、塩浜六町九反余(高五五石余)

木田村
きだむら

[現在地名]寝屋川市木田町・木田元宮きだもとみや一―二丁目・中木田なかきだ町・下木田しもきだ町・出雲いずも町・萱島かやしま桜園さくらえん町・ひがし一―三丁目・信和しんわ町・ほん町・みなみ町〉・昭栄しようえい町・大成たいせい町・日之出ひので

讃良さらら郡に属し、寝屋川左岸、高宮たかみや村・堀溝ほりみぞ村の西に位置する。周囲を「木田囲い堤防」に囲まれた輪中の地。輪中内には井路が縦横に通り舟運の便があった。南部に堤防内外の水位調節を行う閘門式の唐繰樋があり寝屋川に通じた。寝屋川沿いに四十箇道が通り、道沿いに北からかみ村・中村・下村の三集落があった。中村が木田の発祥の地といわれるが、集落規模は高所の上村がもっとも大きくなった。南東部の低湿地は千石せんごく沼とよばれた。

木田村
きだむら

[現在地名]岐阜市木田・北柿きたかき南柿ヶ瀬みなみかきせ下尻毛しもしつけ尻毛しつけ

下尻毛村の北に位置し、西は東改田ひがしかいでん村・上尻毛村。村の東で板屋いたや川・伊自良いじら川・長良古川が合流し、集落は川沿いに細長く続き、西南に支郷西木田がある。中世には木田郷が成立していた。関ヶ原の合戦直前の慶長五年(一六〇〇)八月、池田輝政によって木田郷中に禁制が下されたというが(「池田輝政禁制判物写」専長寺文書)、この文書は検討の余地がある。慶長郷帳および元和二年(一六一六)の村高領知改帳に木田村とみえ、高一千一〇九石余。正保郷帳では田九一三石余・畑一九六石余。文禄三年(一五九四)加藤貞泰(黒野藩)領となったが、慶長一五年加納藩領となり、同藩の知行渡方帳(森文書)によれば家臣一〇名の給地。

木田村
きだむら

[現在地名]上越市木田

せき川左岸、薄袋すすきぶくろ新田の南に位置し、南方木田新田村で北陸街道から分岐していま町へ向かう道が通る。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図には関川に木田渡が描かれている。春日山かすがやま城に近く交通の要所であった。天正六年(一五七八)からの御館の乱では当地でも戦闘があった。同年六月九日付で上杉景勝が築地修理亮資豊に与えた感状(築地氏文書)に「木田表之懸合ニ験壱ツ討捕候、神妙感入候」とある。甲斐の武田勝頼は同月二九日木田に陣を張り、景勝と上杉景虎の和議を進めた(「上杉景勝書状」景勝公御書留)

木田村
はのきだむら

[現在地名]北上市口内町くちないちよう

仙台藩領の江刺郡に属し、北東は同郡小池こいけ村、北西は盛岡藩領和賀郡黒岩くろいわ村、南西は同郡立花たちばな村。東方上口内町から南西方の胆沢いさわ相去あいさり町に通ずる道、南方岩谷堂いわやどう(現江刺市)から黒岩村に至る道、これより分れて立花村に至る道が通る。天正三年(一五七五)八月一七日石川五郎助が戦功によって木田村のうち七千刈を宛行われた(「葛西晴信知行宛行状」中尊寺文書)。同九年一月の和賀氏分限録(小田島家記録写)に知行三〇石の木田主税助が載る。

木田村
きだむら

[現在地名]宇部市大字木田

南流する厚東ことう川の右岸に位置し、村の南東部を山陽道が北東から南西に通る。東は小野おの車地くるまじ、北西は芦河内あしがわち(現厚狭郡楠町)、南西は瓜生野うりうのの各村に接する。のちの通称二俣瀬ふたまたせのもとになった厚東川の中州は木田村に属する。村域内は小高い山地が多いが、川岸に水田が広がる。萩藩領で舟木宰判に属する。

弘治三年(一五五七)の原権左衛門家文書(「閥閲録」所収)

<資料は省略されています>

という毛利隆元の禁制があり、また同年八月二三日付浄名寺文書(「寺社証文」所収)にも「吉見郷木田村」とみえる。

慶長五年(一六〇〇)の検地帳では木田・薬師堂・瓜生野が合筆で記され、同一五年の検地帳でも三村が合筆され、総石高四九〇石余、うち田二八町余で三七五石余、畠一三町余で七七石余、百姓屋敷五六で小物成八石余となっている。

木田村
きたむら

[現在地名]旭町木田

現旭町北部に位置し、東部を重富しげとみ川、西部を白角しろつの川が流れる。北は邑智おおち八戸やと(現桜江町)、南は本郷ほんごう村・和田わだ村で、南境の防六ぼうろく(四六二・六メートル)では水晶がとれたといい、宝銀ほうぎん山とも称されたという。貞応二年(一二二三)三月日の石見国惣田数注文に那賀郡の公領として「木田 十三丁四反小」とみえ、異筆で「ふくやちきやう(福屋知行)」と記されている。鎌倉末―南北朝期の頃には、益田氏(御神本氏)の庶流であった福屋氏が知行していたと考えられ、永禄五年(一五六二)の福屋氏滅亡ののち吉川氏領となったと推測される。

木田村
きだむら

[現在地名]杵築市杵築

杵築城下の北西にあたり、中世の木田村は宮司みやじ村・次郎丸じろうまる村、城下町の新屋敷しんやしきを含むが(杵築市誌)、近世には宮司・次郎丸が独立し小村となった。南北朝時代のものと推定される年月日未詳の八坂下庄秋吉名当知行并押領分坪付注文(秋吉文書)に「一所四段大木田こめ」とあり、秋吉名内部の地名である。現在は宮司のうちであるが、八坂下やさかしも庄の惣鎮守である若宮八幡社は木田村に鎮座した。天正四年(一五七六)四月二一日の杵築若宮八幡社棟札銘には「扶桑国豊之後州速見郡八坂下之御庄惣廟、木付木田之村若宮八幡宮」とみえる。

木田村
きだむら

[現在地名]大分市木田

いち村の南東にあり、丹生にゆう川の支流尾田おだ川右岸に沿って南北に細長い村。北部が低く南はしだいに高くなり佐賀関さがのせき山地の山嶺線まで延びる。「肥後国誌」によると「大河内村・コレウ村・久村・太郎丸村・道尻村・平野クヌキ尾村・田中村」などの小村がある。江戸時代を通じて肥後熊本藩領で関手永のうち。寛永一一年(一六三四)の同藩豊後国郷帳に村名がみえ高八〇九石余。正保郷帳によれば田高六二八石余・畑高一八一石余、佐賀さが郷に所属。「肥後国誌」は木田村高七四三石余のほかよしさこ村高三八石余・江子えご村高二七石余を載せる。なお「豊後国志」は当村に東・西の二村がありとし、御霊ごりよう・江子・大内川の三村を別に記す。

木田村
きだむら

[現在地名]東海市大田おおた

丘陵地帯に立地し、村北を大里おおさと(現大田川)が東から西へ流れる。北は木庭こんば村、東は姫島ひめしま村に接する。文和三年(一三五四)の熱田社領目録案(熱田神宮文書)に「木田郷」田畑二一町半とみえ、木田郷は横須賀よこすか村などを含む地域の総称であった。室町中期には土豪一色左馬介、後期には荒尾小太郎が支配した。

木田城近くの現天台宗雨尾山観福かんぷく寺は、大宝二年(七〇二)行基の開基と伝え、宝徳二年(一四五〇)再建の際には、一色左馬介および一色中務大輔が援助した(観福寺棟札)。源敬様御黒印写(徳川林政史蔵)によれば、寛永一六年(一六三九)には全村が滝川権十郎の給知。「寛文覚書」によれば、概高五一六石余、田二三町八反二畝余・畑九町四反二畝余、家数四九、人数二六五。

木田村
きだむら

[現在地名]鈴鹿市木田町

鈴鹿川北岸の丘陵の南側、山辺やまべ村の東にある。背後の丘陵には、弥生時代の遺跡をはじめ古墳群も多い。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳に「五百八石九斗九升 木田村」とある。江戸時代初期は幕府領で、おそらく石川氏の入部以後は神戸藩領。文化六年(一八〇九)家数一〇二(「清渚秘記」本田善一郎氏蔵)、同一四年家数九五、人数四〇八(「諸用雑記」同氏蔵)。明治五年(一八七二)には高五五五・三六一石、戸数一〇五(各区戸長名簿)となっている。

木田村
きだむら

[現在地名]吉良町木田

北は岡山おかやま村、東は寺嶋てらじま村、南は小牧こまき村、西は横須賀よこすか村に接する。村名の由来は、開墾当時水田村と称し、正向しようこう寺所蔵の御開山御絵伝箱書にも「天和癸亥五月二十八日三州水田村」とあるが、いつの代からか木田村に変わるという(幡豆郡横須賀村誌)

木田村
きだむら

[現在地名]福井市西木田にしきだ・みのり一帯

福井城下の南方にあり、中世は奈良興福寺領木田庄の地。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図には「木田村上下」とみえ、その石高は正保郷帳の木田村二三二六・二石と板垣いたがき村一一〇六・三七一石を含む。同帳によると木田村は田方一千七一二石余・畠方六一三石余。

木田村
きだむら

[現在地名]美和町木田

北は中橋なかばし村・花正はなまさ村に接する。「寛文覚書」に戸数六二、人数四一五とある。「徇行記」によれば、概高一千六七三石余のうち一千三五七石余は藩士三一人の給知。田は六八町六反一畝余、畑は一四町九反余で、「出作モ入作モナシ、地割ハ十年目毎ニスルトナリ(中略)木田村市ハ古義ニ享保十六亥年ヨリ六斎市御免」とあり、近在の交易の中心であったことが知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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