服部村(読み)はつとりむら

日本歴史地名大系 「服部村」の解説

服部村
はつとりむら

[現在地名]豊中市服部〈ほん町一―五丁目・もと町一―二丁目・ゆたか町一―二丁目・西にし町一―四丁目〉・城山しろやま町一―四丁目・曾根南そねみなみ町一丁目・長興寺南ちようこうじみなみ四丁目

現豊中市域のほぼ中央部、豊中台地の南の低地に位置し、村域の中央を能勢のせ街道(池田道)が通り、その沿道に集落(現服部本町一―二丁目・服部元町一丁目)がある。

〔中世〕

豊島てしま榎坂えさか郷五ヵ村のうち。もと穂積ほづみ村に属していたが、鎌倉後期に独立した。村域は六条一―二里を中心にしており、近衛家領垂水西たるみのにし牧領であった。同牧は寿永二年(一一八三)六月に奈良春日社に寄進され、近衛家が本所、春日社が領家となった(→垂水西牧、吹田市の→榎坂郷。鎌倉中期頃より春日社は支配強化に努めたらしく、延応元年(一二三九)に垂水西牧穂積村領家名寄帳を、翌年五月には垂水西牧穂積御庄領家田畠坪付帳を作成している(今西家文書、以下同文書については個別文書名のみ記す)。この名寄帳の利武名と長寿名の項に「服部」「服部名」の記載があり、鎌倉中期にすでに当村の地名が使われていたかにみえるが、同帳は明らかに後代の写であるから、これをもって確証とはできない。

弘安三年(一二八〇)春日社の在地への負担強化策に対して榎坂郷では榎坂助村らが下向してきた春日神人に武力抵抗をしたため紛争が起こり、本所のとりなしで郷民は妥協し、各村ごとに神供米、興福寺段米、本所の春日詣の屯食などの弁済、新井料の措置などについて請文を提出した。そのなかに穂積・服(部)両村としての請文があり、この時点で当村が穂積村から独立していたことがわかる(「中臣祐賢記」弘安三年四月六日条)。この請文の署名人六名中、則武・時里・成延の三名主は、のちの史料からみて服部村の名主で、両村は各三名主を代表としていることからほぼ対等であり、彼らを中心とした村落結合により村請体制をとったと考えられる。

服部村
はつとりむら

[現在地名]高槻市大蔵司だいぞうじ一―三丁目・西之川原にしのかわら一―二丁目・塚脇つかわき一―五丁目・宮之川原元みやのかわらもと町・宮之川原みやのかわら一―五丁目・浦堂本うらどうほん町・浦堂うらどう一―三丁目・安岡寺あんこうじ町一―六丁目・寺谷てらたに町・芝谷しばたに町・黄金の里こがねのさと一丁目・東城山ひがししろやま町・日吉台一番ひよしだいいちばん町・日吉台三番ひよしだいさんばん

はら村の南にあり、あくた川中流左岸の扇状地に位置する。条里制の遺称とされる小字に六ノ坪がある。古代島上しまかみ服部はとり(和名抄)の地で、允恭天皇の代に織部司に任ぜられたという服部連の本拠地と推測され、産土神の神服しんぷく神社は「延喜式」神名帳に載る島上郡「カムハ トリノ神社」に比定される。文和元年(一三五二)二月一〇日付摂津国真上虎才丸所領保証契約状写(屋代弘賢採訪集古文書)に「奈佐原四箇庄・同服部村惣追補使職田畠等」とある。南北朝期には服部村における惣追補使職ならびに給田畑は真上氏によって握られていた。天正一二年(一五八四)四月八日付三崎家次寄進状(本山寺文書)に、本山ほんざん寺領の「高槻西口字チウロフ壱段」の替地として「服部村浦堂前字ハヽサキ壱段進之候」とある。浦堂については、前掲契約状の保証人たる国人交名に「ウラタウ ゑもん」がみえ、当時は真上まかみ庄の一部を形成していたとされているが(高槻市史)、戦国期にはすでに当村の一部に入っていた。

服部村
はつとりむら

[現在地名]斑鳩町大字服部・服部一―二丁目

五百井いおい村の南に位置する。延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳に「服庄 十条九里廿八坪丁(下略)」、建保二年(一二一四)五月の東大寺領諸荘田数所当等注進状(東大寺続要録)には「東羽鳥」「西羽鳥」の荘名がみえる。

服庄は服部庄の、服部は古代服織(機織)部のそれぞれ二字化表記したもの。現服部の西南(大字五百井飛地)ハタオリの小字がある。元暦元年(一一八四)六月の僧栄信田地相博券(書陵部所蔵文書)に「服庄田内 平群郡坂門郷十条十里十七坪 字柏取 右件私領田者、法隆寺之前(興カ)富之内字かしハとり弐段」とある柏取かしはとり(大字五百井飛地)の現存小字は、前記ハタオリに近接する。

服部村
はつとりむら

[現在地名]鳥取市服部

菖蒲しようぶ村の南、千代川西岸の支流有富ありどめ川との合流地の南方にある。支村として阿弥陀寺あみだじがある(因幡志)。慶長一〇年(一六〇五)の気多郡高草郡郷帳に「服部 菖蒲」とみえる。藩政期の拝領高七三三石余、本免五ツ八分。藪役銀一匁七分・山役銀一〇匁五分・川役銀四五匁を課されていた(藩史)。円山・前田・真崎・不破・宮崎・関・黒田・西野・二宮・岡部・吉村の各氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」の家数四五、天保一四年(一八四三)の村々人数増減書上帳(加藤家文書)では男一〇四・女一一六、嘉永二年(一八四九)の組合帳(同文書)では竈数五〇。

服部村
はつとりむら

[現在地名]上野市服部町

羽根はね村の西。南を服部川が流れる平坦地で、対岸にも村有地がある。条里の遺構が新寺しんでら岡田おかだ一丁田いつちようだ辺りに残り、その地域を南北に貫く道は条里の名残で、江戸時代は加太かぶと越奈良道(大和街道)として賑った。新寺はいわゆる万町の沖まんちようのおきの中心部で弥生時代中期の土器が出土し、新寺から中之坊なかのぼうの東北にかけてあった蓮花れんげ寺は、弘治元年(一五五五)と永禄一一年(一五六八)に京都の吉田兼右が滞在した服部郷蓮花寺であろう(兼右卿記)

服部村
はつとりむら

[現在地名]長船町服部

南流する香登かがと川沿いの低地にあり、北と東は新庄しんじよう(現備前市)。古代の邑久郡服部郷(和名抄)の遺称地とされる。徳治三年(一三〇八)六月一日の法勝寺条々(釈文書)に「寺領備前国服部保」とみえ、鍛冶給とある。応永二五年(一四一八)八月日の備前国棟別銭注文案(東寺百合文書)によれば、服部郷は異議なく納入している。

慶長三年(一五九八)に「邑久郡服部内」一九石余が吉備津彦神社社家の大森藤左衛門尉に宛行われている(「宇喜多秀家黒印状」吉備津彦神社文書)

服部村
はつとりむら

[現在地名]守山市服部町

新庄しんじよう村の北、野洲やす川北流左岸に位置。条里制数詞坪地名の八ノ坪が残る。古くは津紫原つしはら村といい、「輿地志略」によれば「服部村の内」に「津田村」「つし原村」があったという。天正一九年(一五九一)四月の徳川家康知行目録写(大谷文書)に「九百拾六石五斗四升 服部両郷」とみえ、寛永石高帳では高八二五石余で、旗本上田領。慶安高辻帳によれば田五四九石余・畑二四三石余、永荒三二石余。

服部村
はつとりむら

[現在地名]彦根市服部町

稲葉いなば村下稲葉の東、同村上稲葉・彦富ひこどめ村の南に位置し、南は愛知川で限られる。八鳥とも書いた。慶長三年(一五九八)七月の浅野長吉知行目録(浅野家文書)に八鳥村がみえ、同所の高五六三石余が豊臣秀吉から浅野氏に与えられている。慶長高辻帳には服部村とあり、高五六一石余、うち二石余は小物成。彦根藩成立時から文久元年(一八六一)まで同藩領、同二年幕府領となる。元禄八年大洞弁天寄進帳によると人数五六五、うち寺社方一。当村でも商人仲間八鳥組が結成されており(柳川共有文書)、松前・信濃・越後・越前・伊勢などに小間物を商い、また鍋鋳掛に出掛けていた(服部共有文書)

服部村
はつとりむら

[現在地名]倉敷市玉島服部たましまはつとり吉備きび真備まび町服部

小田おだ川右岸に沿い、東は二万にま(現真備町)と接する。寛永備中国絵図では高四六四石余、岡田藩領。以後、幕末まで同藩領。正保郷帳には枝村として八高やたか村を記す。天明年間(一七八一―八九)写の岡田藩領畝高留記(吉備郡史)では高九七四石余、田五一町八反余・畑三八町五反余。天保九年(一八三八)の巡見使案内手鑑(石井文書)によると高四六四石余、田二六町六反余・畑一二町七反余、家数二四三・人数一千七四、牛六八・馬一、神社二、寺院三。

服部村
はつとりむら

[現在地名]中川区富田とみだ町服部

北は千音寺せんのんじ村に接し、しん川と福田ふくた川に挟まれた村。富田庄絵図(円覚寺蔵)に服織里とみえる。寛文一一年(一六七一)の家数三〇、人数一六〇(寛文覚書)。「徇行記」によれば、概高三六八石余のうち二七七石余は藩士四人の給知。田は二五町八反一畝余、畑は三町九反余。「高ニ準シテハ戸口多クシテ耕田不足ナル故ニ千音寺村・新家村ノ田畝ヲ承佃スト也、持高平均ノ所ニテ農屋モ甲乙ナク、村立モ大体ヨキ所ナリ」とし、天正一一年(一五八三)当地の地頭服部平左衛門が織田信雄から朱印状を与えられたことを伝える。

服部村
はつとりむら

[現在地名]倉吉市服部

さくら村の東、国府こう川流域に位置する。東は上福田かみふくだ村。村名は古代の服部に関係するともいわれる。拝領高は四七三石余、本免五ツ五分。熊沢・荒木三氏・中村・岡村の六氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高五二〇石余、竈数四〇余。国司こくし大明神・桑原くわばら大明神を祀っていた。

服部村
はつとりむら

[現在地名]真備町服部、倉敷市玉島服部たましまはつとり

明治二二年(一八八九)すえ村と合併して吉備郡穂井田ほいだ村となり、昭和三一年(一九五六)大字服部の北部地域は真備町に、大字陶および服部の南部地域は玉島市に編入する。

服部村
はつとりむら

[現在地名]伯太町安田やすだ

北安田村の南東に位置する。正保国絵図に村名がみえ、寛文一二年(一六七二)の反新田畑検地帳が伝存する。天保郷帳では高五三〇石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報