垂水西牧(読み)たるみのにしまき

日本歴史地名大系 「垂水西牧」の解説

垂水西牧
たるみのにしまき

豊島てしま郡の千里丘陵周辺に所在した摂関家領の私牧から発展した庄園。一一世紀半ばには成立、牧役を負担していた(吹田市の→垂水東牧。範域は丘陵北辺の萱野かやの(現箕面市)、丘陵から南西に流れる千里せんり川上流域の桜井さくらい郷、下流域の六車むぐるま(原田郷)天竺てんじく川流域の長興寺ちようこうじ、丘陵南辺から西に広がる榎坂えさか(現豊中市・吹田市)からなっていた。

〔春日社領垂水西牧の成立〕

当牧は寿永二年(一一八三)時の藤原氏氏長者近衛基通から奈良春日社に寄進された。その内容は社家の下知のもとに年貢雑事を春日社に勤仕するというもので(同年六月八日「近衛基通家政所下文案」春日大社文書)、年貢分だけを同社に寄進した垂水東牧とは異なっていた。文面からは当牧のすべてが春日社に寄進されたかにみえるが、年貢雑事の一部であってその後も近衛家の春日詣の屯食や饗などを負担しており(「猪隈関白記」正治二年正月一〇日条など)、建長五年(一二五三)一〇月二一日の近衛家所領目録(近衛家文書)にも、「寄進神社仏寺所々 春日社 摂津国垂水西牧社家知行 以年貢宛春日社日並御供、但続松以下課役勤之、此間不合期」とあるように、近衛家への雑事役を留保しての寄進である。また、当牧での事件に際して近衛家の裁決もされているから、近衛家が本所、春日社が領家であったといえる。寄進理由は「御心中依有御祈願事」とあるが(前掲政所下文案)、治承・寿永の乱に際して、平家と親しい関係にあった近衛家としては、春日社領とすることで当牧の支配維持をはかることにあったと考えられる。その効あって、翌寿永三年二月一八日には、後白河院より当牧について勅院事・国役ならびに平家追討の兵士役・兵粮米徴収および武士の狼藉を停止する旨の決定があった(「後白河院庁下文案」春日大社文書)。なおこの内乱時に萱野郷には源義経の所領があった(箕面市の→萱野郷

〔支配〕

春日社の西牧支配は、桜井郷が六車郷より北に位置しているが、萱野郷・六車郷をほく郷方、桜井郷・榎坂郷なん郷方に分け(ただし戦国期には榎坂郷を南郷とよんだ。→服部村、それぞれに牧務職をおいて、春日社の祠官をつとめる社家のうちから興福寺学侶の推挙を受けたものが本所より任命された。社家には中臣系の辰市・大東・千鳥などの諸家が、大中臣系では中東家・正真院家などがあり、奈良での居住地から中臣系を南郷、大中臣系を北郷とよんでいたが、「蓮成院記録」によると、南郷方牧務職は大東家、北郷方のそれは中東家が世襲していたというから、両郷の分割とその呼称は牧務職担当家に由来するものかと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報