最勝光院(読み)さいしょうこういん

精選版 日本国語大辞典 「最勝光院」の意味・読み・例文・類語

さいしょうこう‐いん ‥クヮウヰン【最勝光院】

中宮建春門院平滋子の願で、後白河天皇が創建した寺。承安三年(一一七三建立、嘉祿二年(一二二六)六月焼失。「明月記」によると、現在の京都市東山区今熊野付近にあったというが、左京区南禅寺境内にあったともいわれる。

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日本歴史地名大系 「最勝光院」の解説

最勝光院
さいしようこういん

法住寺殿に建立された寺で、現存しない。「百錬抄」承安二年(一一七二)二月三日条に「建春門院法住寺御願上棟最勝光院是也、両院臨幸件地元是故顕長卿母堂之地也、件堂壊渡他所」とみえる。建春門院の御願になり、この日上棟された。「玉葉」承安元年一一月一日条に「近日院、建春門院可歴覧平等院云々、仍殿辺営之云々」とあり、法住寺殿辺りに宇治平等院を模した御堂を造ろうとして平等院に検分に行ったものであろう。上棟後の六月一三日にも造作上不審な点があり、これをただすため鳥羽とば御堂(現京都市伏見区証金剛院・勝光明院等)を巡拝している(吉記)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「最勝光院」の意味・わかりやすい解説

最勝光院
さいしょうこういん

京都市東山区にあった後白河法皇の御所法住寺殿(ほうじゅうじどの)の一郭に建てられた御願寺(ごがんじ)。女御(にょうご)建春門院(けんしゅんもんいん)(平滋子)の発願により、後白河法皇が女院の兄の平時忠(ときただ)を責任者として造営させた。1172年(承安2)2月に上棟、翌年10月に盛大な落慶供養が行われた。宇治平等院の鳳凰堂(ほうおうどう)形式の壮麗な寺院であったとみられる。同院が建立されると、翌1174年に源雅通(まさみち)・藤原成親(なりちか)が荘園を施入するのをはじめ、院近臣を中心に荘園所領の寄進が相次ぎ、法皇がこれを管領した。1226年(嘉禄2)6月4日放火によって焼亡し、寺運は衰微に向った。同院領は、法皇の没後、後鳥羽(ごとば)上皇、後堀河(ごほりかわ)上皇、後嵯峨(ごさが)上皇、亀山上皇、後宇多(ごうだ)上皇を経て、後醍醐へと伝領されるが、その間に荘園支配は次第に動揺していった。後醍醐天皇は、1326年(嘉暦1)3月、最勝光院と20か所にのぼる同院領を東寺に寄進し、建春門院とその子高倉天皇の忌日(きにち)に東寺御影堂(みえいどう)で仏事を勤修(ごんしゅ)させることとし、かろうじてその法灯を維持した。

[田中文英]

『杉山信三著『院家建築の研究』(1981・吉川弘文館)』『朧谷寿著『平安貴族と邸第』(2000・吉川弘文館)』

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改訂新版 世界大百科事典 「最勝光院」の意味・わかりやすい解説

最勝光院 (さいしょうこういん)

現京都市東山区にあった後白河法皇の御願寺(ごがんじ)の一つ。法皇の院御所の法住寺殿の一部に建てられ,その女御建春門院平滋子とその子高倉天皇を本願とする。1173年(承安3)落慶法要が行われ,豪華をきわめた寺院であったが,1226年(嘉禄2)6月4日大火にあい,以後衰退の一路をたどった。1326年(嘉暦1)3月18日,後醍醐天皇は当院およびその荘園を挙げて東寺に寄進,以後建春門院および高倉院の忌日には,東寺御影堂で不断光明真言が勤修されることとなった。
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世界大百科事典(旧版)内の最勝光院の言及

【新見荘】より

…平安時代の末ころ,大中臣孝正の開発した所といわれ,孝正はこれを官務家の小槻隆職(おづきのたかもと)に寄進した。小槻隆職はさらに上級の権門の保護を得るため,建春門院平滋子とその子高倉天皇を本願とする最勝光院に寄進,かくして新見荘は最勝光院を本家,小槻氏を領家とする荘園となった。鎌倉中~末期には地頭との間に下地中分が行われ,東方を地頭方,西方を領家方とした。…

【松浦荘】より

…肥前国松浦郡(現,佐賀県唐津市,東松浦郡)に設定されていた最勝光院領の荘園。この地は大江国兼の私領であったが,その子国通に伝領され,1139年(保延5)鳥羽院庁下文(くだしぶみ)によって別符(べつぷ)となり,公験(くげん)(証拠文書)の理によって堺に四至牓示が打たれた。…

※「最勝光院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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