明石元二郎(読み)あかしもとじろう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「明石元二郎」の意味・わかりやすい解説

明石元二郎
あかしもとじろう
(1864―1919)

陸軍軍人元治(げんじ)元年8月1日、福岡藩士族の子として生まれる。陸軍幼年学校を経て1883年(明治16)陸軍士官学校卒業。1889年陸軍大学校卒業。1894年にドイツ留学し、1895年帰国、近衛師団(このえしだん)参謀として台湾に出征した。ついで参謀本部部員となり、東南アジア、南洋諸島、清国(しんこく)などに派遣される。1901年(明治34)フランス公使館付き、1902年ロシア公使館付き。日露戦争中は西ヨーロッパからロシア国内の革命派を援助する謀略工作を行った。1907年第一四憲兵隊長(朝鮮)、1908年韓国駐箚軍(かんこくちゅうさつぐん)参謀長兼韓国駐箚憲兵隊長。1910年韓国駐箚憲兵隊司令官として朝鮮における憲兵政治を確立した。その後、参謀次長、第六師団長を経て、1918年(大正7)台湾総督となって大将に進んだが、翌大正8年10月26日在任中に病没した。

藤原 彰]


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改訂新版 世界大百科事典 「明石元二郎」の意味・わかりやすい解説

明石元二郎 (あかしもとじろう)
生没年:1864-1919(元治1-大正8)

明治・大正期の陸軍軍人。福岡藩士明石助九郎の次男。陸軍士官学校(旧6期)をへて,1889年陸軍大学校卒業。日清戦争に近衛師団参謀として従軍。参謀本部員として,フランスやロシアの公使館付となり,日露戦争中にはストックホルムにあってロシア国内の諜報活動,攪乱工作にあたった。1908年韓国駐劄(ちゆうさつ)軍参謀長,憲兵隊長,10年韓国駐劄憲兵隊司令官として朝鮮の義兵闘争鎮圧を指揮し,併合後の朝鮮支配の基礎となった憲兵警察制度原型をつくった。のち,参謀次長,第6師団長をへて18年台湾総督となったが,任地で病没した。
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百科事典マイペディア 「明石元二郎」の意味・わかりやすい解説

明石元二郎【あかしもとじろう】

陸軍大将。福岡藩士の子。幼年学校,士官学校を経て1894年ドイツに留学。日清戦争に近衛師団参謀となり,日露戦争中はヨーロッパで諜報活動に従事。1908年韓国駐箚(さつ)軍参謀長兼憲兵隊長となり,朝鮮の義兵闘争を鎮圧。日韓併合後の支配の基礎となった憲兵警察制度の原型をつくった。参謀本部次長,第6師団長を歴任し,1918年台湾総督に就任。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「明石元二郎」の解説

明石元二郎 あかし-もとじろう

1864-1919 明治-大正時代の軍人。
元治(げんじ)元年8月1日生まれ。日露戦争ではロシア公使館付としてストックホルムでロシアに対する諜報(ちょうほう)・謀略活動にあたる。のち韓国駐箚(ちゅうさつ)憲兵隊司令官として憲兵による朝鮮支配をすすめた。大正7年台湾総督,陸軍大将。男爵。大正8年10月26日死去。56歳。筑前(ちくぜん)(福岡県)出身。陸軍大学校卒。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「明石元二郎」の意味・わかりやすい解説

明石元二郎
あかしもとじろう

[生]元治1(1864).8.1. 福岡
[没]1919.10.26. 台湾
陸軍軍人。日本の憲兵・警察制度の原型をつくる。 1883年陸軍士官学校,89年陸軍大学校卒業。日露戦争中ヨーロッパに駐在し,レーニンらロシア革命派に資金,武器を与え謀略工作を行なった。 1910年日韓併合時の韓国駐在憲兵隊長。 18年6月台湾総督,同年7月大将。

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世界大百科事典(旧版)内の明石元二郎の言及

【情報機関】より


[日本]
 日本はCIAやKGBに当たる総合的な情報機関を持っていない。情報・謀略活動に関しては,古くは日露戦争に際しロシア,ポーランドなどの反体制派を支援して活動を行った明石元二郎陸軍大佐(当時。1864‐1919)が有名である。…

※「明石元二郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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