義兵闘争(読み)ぎへいとうそう

改訂新版 世界大百科事典 「義兵闘争」の意味・わかりやすい解説

義兵闘争 (ぎへいとうそう)

朝鮮,李朝末期の反日武装闘争。1896年の初期義兵と1905-14年の後期義兵とからなる。李朝時代にはこのほかにも壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役)時の義兵など多くの例がある。前近代以来の義兵の理念は,在野の臣は王朝・君主を外敵の侵略,内乱の危機から救うために自発的に挙兵できるし,すべきであるという名分論であった。初期義兵は日清戦争以後の日本の露骨な内政干渉,対日従属的な甲午改革の実施によって高まった反日気運を背景とし,直接には閔妃(びんひ)虐殺事件(1895年10月),断髪令強行(同12月)を契機として起きた。義兵を指導した衛正斥邪派の在地両班(ヤンバン)は名分論および西洋文明を排斥する攘夷論に基づいて,日本勢力の駆逐,親日開化派政権の打倒,改革の停止と旧体制への復帰を主張した。義兵を構成したのは両班の家僕,農民,猟師(砲手),地方兵などであった。蜂起は96年1月に中部朝鮮から始まり,3月には全国に拡大した。義兵は地方都市の占領,地方官殺害,日本商人・漁民襲撃,日本軍用電信線切断など勢力を振るい,同年2月に開化派政権が倒れた後も柳麟錫の部隊などは日本軍守備隊,政府軍との交戦を続け,敗退の末に運動が終息したのは10月ころであった。初期義兵は日本の侵略を一時後退させる一要因となった。

 日露戦争によって日本の朝鮮植民地化が進むと1905年春から義兵は再起した。翌年には閔宗植崔益鉉などの旧大官が率いる義兵が起きたが,相ついで鎮圧された。07年8月,朝鮮軍が解散され,軍人が義兵に加わるようになると義兵の戦闘力は強化され,運動は全国的に拡大し,08-09年にはその最盛期を迎えた。また洪範図,申乭石など平民出身義兵将の台頭攘夷主義の弱化など運動の性格にもやや変化が生じた。義兵は国権回復を目ざし日本軍と頑強に戦ったが,日本軍の優勢な火器焦土戦術憲兵・警察の増強と稠密な配置などによって圧迫され,09年秋を境に勢力は後退し,14年には国内の活動を終えた。一部は中国東北・沿海州へ移り,独立軍となって軍事行動を継続した。
独立軍抗争
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「義兵闘争」の意味・わかりやすい解説

義兵闘争
ぎへいとうそう
Ǔibyǒng t'ujaeng

朝鮮で行われた侵略者に対する民衆抵抗運動。武装の場合が多い。朝鮮では古来,侵略者に対する民衆 (各層にわたる) の抵抗運動が激しく展開された。 13世紀のモンゴル軍の侵入,あるいは 16世紀の豊臣秀吉による壬辰・丁酉の倭乱 (→文禄・慶長の役 ) に際しても全道で広般な民衆の抵抗が行われたが,朝鮮史上本格的な義兵闘争は 1910年の「日韓併合」前後から始った反日闘争で,「義兵運動」と呼ばれる。すなわち朝鮮は日露戦争開戦直後の 04年に「第1次日韓協約」,引続く 05年の日露戦争終了直後に「第2次日韓協約」を日本と締結したが,その内容が朝鮮の独立を事実上日本に奪われるものであることを知った官民の不満は強く,各地で反日運動が展開された。さらに 07年「日韓新協約」が成立し,また韓国軍隊の解散が強制されるにいたって各地で解散拒否の軍隊と武力をもって解散を強行しようとする日本軍との対立がみられ,この問題を契機にして一挙に反日義兵運動が全土に巻起った。これら運動の主体は農民層で,旧軍人,官僚なども含まれていたが,反日武力闘争という性格において一致していた。彼らは親日団体の幹部を襲い,あるいは日本軍の施設を攻撃するなど各種の抵抗運動を根強く広範に行なったが,日本の強大な武力支配に敗北した。しかし長期的にみれば義兵運動はやがて起る三・一運動の前提として高く評価されている。また朝鮮総督がおかれて日本の完全な植民地となってからも半島の内部,あるいは満州 (中国東北地方) で激しい抗日パルチザン闘争が 45年8月の解放まで行われたが,これも広義の義兵運動と解してよい。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「義兵闘争」の意味・わかりやすい解説

義兵闘争
ぎへいとうそう

朝鮮、李朝(りちょう)末期の反日武装闘争(1896、1905~1914)。「義兵」とは、王朝、国王の危機に際して、在野の臣といえども自発的に挙兵して賊と戦う義があるとする名分論に基づいた呼称である。日清(にっしん)戦争を機として日本の朝鮮侵略が強化され、かつ親日の開化派政権下で甲午(こうご)の改革が実施されると、衛正斥邪(えいせいせきじゃ)派(攘夷(じょうい)派)の在地両班(ヤンバン)は反発を強め、1895年末の閔妃(びんひ)虐殺事件(乙未(いつみ)事変)、断髪令を機に、翌96年1月、地方兵、農民を組織して挙兵した。義兵は急速に全国へ拡大し、親日派地方官や日本商人らを殺し、日本軍守備隊、政府軍との戦いを10月ごろまで続けた。その行動は開化派政権の倒壊と日本勢力の一時的後退をもたらした。日露戦争により日本の軍事支配が進むと、1905年春から義兵は国権回復のために再起し、崔益鉉(さいえきげん)、閔宗植(びんそうしょく)らの旧大官も挙兵した。1907年に朝鮮軍が解散されるや兵士が義兵に加わり、その戦闘力は強化され、戦いは全国的、長期的なものとなり、日本の植民地化政策に打撃を与えた。しかし日本軍の増強、憲兵警察網の稠密(ちゅうみつ)化によって圧迫され、韓国併合後の14年にはその戦いは終息した。

[糟谷憲一]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「義兵闘争」の解説

義兵闘争(ぎへいとうそう)

朱子学的な名分論を土台に,外国(日本)の干渉に反対した朝鮮の武装闘争。閔妃(びんひ)暗殺事件や断髪令(1895年)への反発,日韓保護条約(1905年)対する閔宗植(びんそうしょく),崔益鉉(さいえきげん)の抵抗,韓国軍解散(07年)に対する抵抗などが代表的。

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旺文社世界史事典 三訂版 「義兵闘争」の解説

義兵闘争
ぎへいとうそう

反日義兵闘争

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世界大百科事典(旧版)内の義兵闘争の言及

【朝鮮】より

…豊臣秀吉の侵略時には,これに対抗するため100城以上の山城が築城され,義兵の根拠地にもなった。近代の抗日義兵闘争や現代の朝鮮戦争でも,これらの山城が使用されていることは,注目すべきであろう。山城(さんじょう)
[言語と文字]
 原始時代の朝鮮には多くの系統を異にする種族と言語があったが,《魏志》東夷伝によれば,3世紀の朝鮮には濊(わい),貊(はく),韓,倭の4民族がおり,その後しだいに南部の韓族が勢力を得,新羅の統一によって朝鮮民族の形成基盤ができた。…

【マッケンジー】より

…06年再び朝鮮,中国,日本を訪れ,《ベールを脱いだ東洋》(1907)を著した。07年三たび朝鮮を訪れ義兵闘争の取材旅行を行い,日本の対朝鮮軍事支配を告発した《朝鮮の悲劇》(1908)を刊行した。三・一独立運動が起きると翌20年《朝鮮の自由のための闘い》を刊行して,日本の武断統治の実態と独立運動の姿とを伝えた。…

【李朝】より

…その後,親露的政権が樹立され,97年には大韓帝国を名のり,国王は皇帝を称するようになったが,1905年,日露戦争に勝利した日本によって保護条約の締結を強要され,10年にはついに日本の完全植民地とされ,李氏朝鮮王朝権力も消滅した(韓国併合)。 この間,儒学者,両班たちは衛正斥邪の立場から,日本との開国,日本と結んだ近代化や日本の侵略に反対を続け,1896年と1905年には反日義兵闘争を起こした。反日義兵闘争は1907年以降,しだいに大衆化し全国的に拡大したが,思想的には衛正斥邪の影響が強く,近代的改革をめざす都市の運動と結びつくことができなかった。…

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