日御子村
ひのみこむら
[現在地名]香北町日の御子
西嶺村の河内川を隔てて東、物部川北岸に位置する。物部川対岸は韮生野村。主集落は街道より十数メートル上方の河岸段丘上にあり、村名は山を背に南西に向かって緩やかに傾斜する日当りのよい所ゆえとも、また河内川上流の松尾で生れた安徳天皇の皇子が、長じて谷を下りこの地に来住したからとも伝える。
天正一六年(一五八八)の韮生谷地検帳によると、近世の日御子村をヒノミコノ村・扇田村・柳内川ノ村に分け、八町一反二五代(田分六町三反余・畠屋敷一町八反余)を記すが、そのほとんどは「ヒノ林分 長宗平兵衛給」と記され、一部は永野・野中・五百蔵ら近村土豪に分給されている。かつて当地にいたヒノ林某という土豪が長宗我部勢力浸透の過程で完全に没落し、その支配地が長宗我部氏縁辺の武士に与えられたのであろう。
日御子村
ひのみこむら
[現在地名]鶴来町日御子町
小柳村の西、手取川扇状地の扇頂中央部に位置し、村の東を富樫用水、西を郷用水が北流する。火御子・火神子とも記し、「加賀志徴」の引く郷村名義抄は、村名由来を「日御子村之宮、神体日天子の由に付」とする。「白山之記」に宝殿・拝殿から構成された社として「火御子」の存在が記され、当地に比定される。「三宮古記」によれば、文和二年(一三五三)三月一五日の常楽会において火神子の神人が御供を違乱している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報